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他人の書いた文章と比べて、文章が書けなくなってしまったあなたへ

世の中には小説やエッセイ、コラムなどいろんなジャンルの文章がある。文章の種類によって、表現方法がまったくちがって面白い。僕がnoteで書いている文章は、どちらかというとエッセイに近い。そして、どんな文章も書き手によって文章のテイストがちがって面白いし、そこには書き手の本質が隠れていると思っている。

素敵な文章に出会うたびに、喜びが込み上げてくると同時に「勝てない」と思ってしまうし、落ち込んでしまう。素敵な人生がを歩んだ人は、面白い人生を歩んできたにちがいない。だから、素敵な文章に出会うたびに、書き手に「どんな人生を歩んできたんだろう」とか「日々の生活でなにを大切にしているのか」など、いろいろなことを聞きたくなる。

きっと僕が体験したことがない経験をたくさんして、素敵な感性で、起きた出来事をその都度振り返ったりして、自分の人生を文字に変えているんだろうなとかいろいろ考えてしまう。そして、素敵な文章を書く人たちに救われている自分がいる。

僕自身も29年の人生の中で、たくさんの経験をしてきたし、起きた出来事も振り返ってちゃんと文字にしてきた。それでも勝てないと思ってしまう文章がこの世にはたくさんあって、自分の人生は本当に薄っぺらいなぁとさえ思ってしまう。僕には文才がなくて、素敵な文章を書く人には文才がある。でも、本当はセンスは知識だ。そんなわかりきった事実をいまは聞きたくない。勝てないと思えば思うほど、惨めな気持ちがどんどん加速して、文章をやめたいと思う日をなんども過ごしてきた。

素敵な文章を書く人からすれば、「勝手に嫉妬されて、勝手にへこまれるなんてそんなもん知るか」ってお話で、それはごもっともなんだけど、実力のある人を見て、自分の才能のなさを嘆く人は多いと思う。もちろん素敵な文章を書く人が悪いわけではない。素敵な文章を書く人たちには、これからも素敵な文章を書き続けてほしいし、誰かの心を動かしてほしい。

他人と比べて、悔しい思いをモチベーションに変えられる人とそうじゃない人がいる。他人と比べてモチベーションが下がるぐらいなら見なければいいと思う人もいるけど、見ようとしなくても、才能ってやつは勝手に見えてしまうから厄介なんだよね。

他人の努力の結晶を才能という言葉で片付ける好ましくない。そこには敬意がないと感じるし、才能という言葉はその人の努力を見ていない証拠であり、自分が逃げるための言葉だ。でも、凡人が救われるために、才能という言葉をあえて使わせてほしい。そうでもしないと自分の努力不足を認めることができないのだ。

「他人と比べてへこむなら見なければいい」

この言葉には至極納得だけど、他人と比べないでいようと考えれば考えるほど、なぜか自分と他人を比べてしまう。じぶんではコントロールできない部分がやはり存在するのだ。この現象に誰か名前をつけてほしいし、他人と比べずに生きるってものすごく難易度が高い要求だと思う。

でも、幸いにも僕は悔しさをバネに変えられるタイプの人間だ。素敵な文章を書く人の書いた文章に、たとえどれだけ打ちひしがれようと、きっと自分にしか書けない文章があるし、それを書いていくしかない。目の前に与えられた試練を乗り越える。それしか成功の道はない。なにをもってして成功かどうかなんて人によって変わる。それが収入の人もいれば、心を動かした人の人数になる人もいて、目標は自由でいい。自分にしか書けない文章を書くことなら僕にもできるはずだし、だからこそ文章を書き続けることはやめないでいようと思う。

素敵な文章を書くために、これからもいろんなことにたくさん挑戦して、起きた出来事を自分なりに文字にしてみる。そして、その積み重ねの中で、すこしでも素敵な文章を書く人に近づきたい。何事もやめたらそこで終わりだ。ときには諦めも肝心なんだけど、1人でも僕の書いた文章を読みたいと言ってくれる人がいる限りは、これから先も文章を書き続けよう。


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