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エッセイ

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mémoire

 名前には根拠がないので、瞼を開けて目に入ってくるそれを天井とか壁とかでなく、少しさみしいオレンジ色のひろがりのそのままとして受け止める。カーテンがあいていて、全部がオレンジになっている。

 起きあがることのだるさより寝つづけることのだるさが大きい。母親はまだ帰ってきておらず、泣きたい気持ちとほっとする気持ちとがどちらも本当としてある。そばのテーブルに置きっぱなしの缶詰のモモを口が甘く覚えていて

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隅田川はせせらがない (燐光校閲エッセイ) 1

 寄席ではよく「噺家は世情の粗で飯を喰い」という。

 落語家という世拗人(よすねびと)たちは、世間で芸能人の不倫が取り沙汰されれば、「紙入れ」や「風呂敷」といった浮気の噺を嬉々として高座にかける。
 そもそも落語には人間の清いところ、強いところよりは、だらしがないところ、弱いところを扱ったネタが多い。
「わかっちゃいるけどやめられない」。これが落語の基本的な人間観である。「業の肯定」なんて言った

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てんでんの時間

 “時計屋の時計春の夜どれがほんと”。

 夜道には春の風が吹いている。裏路地を歩いていると、時計屋に行き当たる。古びてはいるが綺麗に磨かれた硝子の向こうでは、沢山の時計が蠢いている。金ぴかのもの、フクロウを模したもの、置き時計に懐中時計、ちくたくちくたく、めいめいに時を刻んでいて、どれが正しい時刻を指しているのか、一向にわからない。
 時の迷路にまよいこんだようなその揺らぎ、遊離の感覚が、春の夜

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