隅田川はせせらがない (燐光校閲エッセイ) 1
寄席ではよく「噺家は世情の粗で飯を喰い」という。
落語家という世拗人(よすねびと)たちは、世間で芸能人の不倫が取り沙汰されれば、「紙入れ」や「風呂敷」といった浮気の噺を嬉々として高座にかける。
そもそも落語には人間の清いところ、強いところよりは、だらしがないところ、弱いところを扱ったネタが多い。
「わかっちゃいるけどやめられない」。これが落語の基本的な人間観である。「業の肯定」なんて言った人もある。意識が低いことじつに甚だしい。
明日のおまんまの種になるような話は、期待するほうがまちがっている。
演る方も演るほうだが、聴く方も聴くほうである。
世に校正・校閲と呼ばれる、これまた胡乱な商売がある。
噺家が世情の粗を飯の種にする職業なら、言葉の粗で飯を喰うのが、われわれ校正者である。
他人様の文章に間違いがないかを目を皿のようにして探し、些細な誤字脱字をあげつらう。
執拗(しゅうね)く資料を積み上げて引用文を照合し、まさに不倫を暴こうとする探偵や記者のごとく事実関係を精査し、江戸時代の月齢まで確かめもする。
八つぁん熊さんも草葉の陰で吃驚しているであろう。遥か後の世の青二才が、おらが町のお月様に何の用がありやと。「ソファ」が次の頁で「ソファー」になっていたところでいかなる人が苦しむのであらうかと。ぜんたいお前は暇なのかと。
さにあらず。さにあらずではあるが、妙な仕事であるのは間違いない。
おまけに、「掃葉」の異名からもわかるように、落ち葉はきのごとく、この仕事には終わりがない。
書き手の技倆の問題ではない。どんな名人大家であっても、真っ白なゲラというのはほとんどない。日本語の玄妙不可思議なる表記体系のせいだったり、体裁上の問題だったり、事情は様々だが、印刷され、定著され、商品として流通するにあたって、書籍製造業における品質管理セクションの仕事はけっして少なくないのである。
「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽くまじ」。
かの大泥棒にこと寄せて言えば、人は過つ、ということを前提に職業が成り立っている以上、よろづ言の葉を取り交わしつつ生きる人の世に、校正の種は尽きない、と言える。
そんな種のなかには、くすりと笑えるものもあれば、明日からの言語生活にささやかながら寄与するものも或はあるのではないかと思う。鬼が出るか蛇が出るか、ひとつ書いていくことにする。
(神楽坂のバー・燐光店主より「品書きのうしろ」に読みものを載せたいので何か書くよう請われ捻りだしたものを店主の許可を得て転載、最新回はお店で読める由)
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