渋谷 遼典

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隅田川はせせらがない (燐光校閲エッセイ) 2

ここで突然の校閲クイズである。 Nobody expects the proofreading quiz! 問一、 次の例文をより適当な表記にせよ。  a.「彼はその一言によって勇気が沸くのを感じた。と同時に喉の乾きを覚えた。」  b.「現代日本人のボキャブリーの貧困には呆れるばかり……。」 問二、 次の文章は江戸後期を舞台とする架空の小説の一節である。それぞれ指摘すべき点があるがそれはどこか。  a.「まもなく十八になろうという夏の夜、お初は村の神社の祭りで弥一

    • 隅田川はせせらがない (燐光校閲エッセイ) 1

       寄席ではよく「噺家は世情の粗で飯を喰い」という。  落語家という世拗人(よすねびと)たちは、世間で芸能人の不倫が取り沙汰されれば、「紙入れ」や「風呂敷」といった浮気の噺を嬉々として高座にかける。  そもそも落語には人間の清いところ、強いところよりは、だらしがないところ、弱いところを扱ったネタが多い。 「わかっちゃいるけどやめられない」。これが落語の基本的な人間観である。「業の肯定」なんて言った人もある。意識が低いことじつに甚だしい。  明日のおまんまの種になるような話は、

      • mémoire

         名前には根拠がないので、瞼を開けて目に入ってくるそれを天井とか壁とかでなく、少しさみしいオレンジ色のひろがりのそのままとして受け止める。カーテンがあいていて、全部がオレンジになっている。  起きあがることのだるさより寝つづけることのだるさが大きい。母親はまだ帰ってきておらず、泣きたい気持ちとほっとする気持ちとがどちらも本当としてある。そばのテーブルに置きっぱなしの缶詰のモモを口が甘く覚えていて、残っていた汁を一口飲む。ねっとりした甘さには保健室に貼ってある顔のない黒いばい

        • セカイ系の臨界点としての《天気の子》

          もはや陳腐化して省みられなくなった言葉を再考するところから始めたい。《天気の子》の物語の背後には、いわゆるセカイ系の想像力がある。セカイ系とは、「ぼく」(主人公)と「きみ」(ヒロイン)の関係が、社会や国家といった中間領域を飛び越していきなり世界の存亡に接続する、という想像力を指す。 ふつう、僕らが大きな世界のありように少しでも関わりたいと思うのであれば、自分の周囲や、さらにそれを取り巻く社会に働きかける面倒な手続きを通じて行なう他はない。しかし、セカイ系の想像力においては、

        隅田川はせせらがない (燐光校閲エッセイ) 2

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        • エッセイ
          4本
        • 日記
          3本
        • 感想
          4本

        記事

          公と私についての覚書

          (順不同に書き継がれていく覚え書き。) 公と私。“The personal is political”という1960年代以来のスローガンは、それまで私的な領域とされ、考慮の対象になってこなかった部分にこそ政治的なものが含まれている(たとえば家庭内での暴力や異性間での差別など)、ということを明るみに出し、幾つかの領域で、performativeに(現実の行為に結びつくものとして)機能を果たした。それは未だに有効かつ切実な言葉として、常に再考に値する。  一方で、「個人的なこ

          公と私についての覚書

          動きを描きこむこと

           筋をもつ作品のなかに、主筋の展開に直接は関わらない、ある運動が描き込まれることがある。それは、あらすじを書けば落ちてしまうような部分ではあるが、作品の魅力をなす不可欠な要素となっている細部でもある。なかでも魅力的なものをいくつか抜き出してみる。  たとえば、トリュフォー《大人は判ってくれない》の、遊園地のシーン。  学校をサボって主人公のドワネルが悪友と街に遊びに出かける場面。ゲームセンターや映画館の後で、二人は遊園地に行き、大きな円筒状の回転する遊具に乗る。高速で回転

          動きを描きこむこと

          淡座「端唄と忠臣蔵」、本條秀太郎の三味線

           深川江戸資料館での淡座本公演「端唄と忠臣蔵」、すばらしかった。  淡座(http://awaiza.com) は、現代音楽の作曲家・桑原ゆう、ヴァイオリン・三瀬俊吾、チェロ・竹本聖子、三味線・本條秀慈郎の四氏からなる気鋭の若手音楽家の団体で、この特殊な楽器編成に現れているように、東西の音楽文化を、特に江戸文化と西洋現代音楽をつなぐような試みを根幹に据え、落語家の古今亭志ん輔師匠との共演や屋形船での演奏など、多彩な活動を行なっている集団である。  桑原さんの野心的な試みを

          淡座「端唄と忠臣蔵」、本條秀太郎の三味線

          映画《バーニング》、納屋からビニールハウスへ

          ・当たり前の前提。小説を映画にすることはできない。日本語で書かれた俳句をフランス語にすることが、英語で書かれたソネットを日本語にすることがほんとうにはできないように。それらはあまりにも違う。意味だけでなく形を伴う作品には、翻訳の不可能性と、それぞれの媒体に固有な特質というものがある。小説はあくまで小説であり、映画はあくまで映画である。  その上で、この作品は、原作の日本の村上春樹の短篇小説から受け取ったものを、映画という媒体で、現代の韓国という舞台で、確かに展開しているように

          映画《バーニング》、納屋からビニールハウスへ

          2019年8月3日、海辺の《ボヘミアン・ラプソディ》

           戸崎、という尾道の飛び地で、写真家のTさんをはじめとする地元の人たちや、全国から集まったその友人たちが、基本的にはボランティアで作っているイベントの、お手伝いをしてきた。今回の目玉は《ボヘミアン・ラプソディ》の野外上映。新幹線で東京から福山へ、そこからレンタカーで会場へ向かう。今年はSさんのご友人や大学の元教え子たちと、総勢八人の大所帯。歳も仕事もばらばらの、不思議な面子の旅になった。  車を降りると、鉄板で何かを焼く威勢のいい音がし、香ばしい匂いが鼻をくすぐる

          2019年8月3日、海辺の《ボヘミアン・ラプソディ》

          《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》

           テレビシリーズからここまで観て、やっと1995年から1997年の庵野秀明がエヴァンゲリオンシリーズで何をしようとしていたのかが見えてくる。  テレビシリーズではほとんどただの符丁でしかなかった“人類補完計画”は、ATフィールド=心の壁によって中途半端な個体であるしかなく、孤独を抱え込むしかない現生人類を、単体の生命、ハイブマインド、肉体的にも精神的にも輪郭を喪い、溶け合った集合的な生命に還元する計画であることが明かされる。(“できそこないの群体としてすでに行きづまった人

          《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》

          てんでんの時間

           “時計屋の時計春の夜どれがほんと”。  夜道には甘やかな春の風。裏路地を歩いていると、時計屋に行き当る。古びてはいるが綺麗に磨かれた硝子の向こうでは、沢山の時計が蠢いている。金ぴかのもの、フクロウを模したもの、置き時計に懐中時計、ちくたくちくたく、めいめいに時を刻んでいて、どれが正しい時刻を指しているのか、一向にわからない。  時の迷路にまよいこんだようなその揺らぎ、遊離の感覚が、古歌にあやなしと詠まれ、夢のごとしと語られてきた「春の夜」と、かなにひらかれた「ほんと」に託

          てんでんの時間