公と私についての覚書

(順不同に書き継がれていく覚え書き。)

公と私。“The personal is political”という1960年代以来のスローガンは、それまで私的な領域とされ、考慮の対象になってこなかった部分にこそ政治的なものが含まれている(たとえば家庭内での暴力や異性間での差別など)、ということを明るみに出し、幾つかの領域で、performativeに(現実の行為に結びつくものとして)機能を果たした。それは未だに有効かつ切実な言葉として、常に再考に値する。

 一方で、「個人的なことは政治的なこと」を字義通りに(constativeに)受け取れば、それは明らかに公的なものに対する私的なものの否認であり、個人を集団的なものとしてのみ捉えることを意味する。それは、裏返しのファシズムである。全体主義の定義は、まさに集団から独立した私性というものの否定なのだから。

 実際には、「公人」がいるのでも、「私人」がいるのでもない。人間は常に私的な存在であり、公的な存在でもある。

 公共的な価値の充実と、個人の自由や幸福、創造性の追求、それぞれの目指すものを活かす為にも、どこで線を引くか、という事が問われなくてはならない。それはもちろん、本来のフェミニズムやアイデンティティ・ポリティクスの文脈において、或いはまた、たとえば健康増進法と喫煙、過激化するスクープへの熱狂、そして古くから「政治と文学」として論じられてきた、政治性と表現の関係について。

 ここでこそ、吉田健一の言葉は思い出されるべきなのだろう。

(吉田健一について。戦後米軍占領下で長く首相を務めた吉田茂の長男で、生涯一英文学者であり、徴兵も経験している彼が、「長崎」という紀行文で、「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」という一文をどのような文脈で書いているか。)

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 そもそも民主主義とは、それまで王権神授説などによって正統化されていた権力の源泉を、民衆(の社会契約)にこそある、というところから始めた社会思想である(そこに、ホッブズやルソーの革新/革命性があった)。権力は一度出来上がった途端に、容易く暴走し、腐敗してしまいやすいものであり、また大勢の人々の異なる事情や価値観のあいだで困難な調整を強いられる機関でもあるわけで、我々はつねにそれを批判的に眺めなければならないけれども、権力を自らに与らない他人事として完全に切り離して眺めるのは、だから民主主義的には間違っている。

 われわれは、「公人」として政府の人々を雇用しているのでもなければ(このように考えるとき、僕らは資本主義的価値観によって民主主義を殺そうとしている)、常に「私人」としてのみ振舞っていればよいわけでもない。
 よく、日本という国の条件として、国民が国家を作ったのではなく、国家が国民を作った、といわれる。明治維新で起きたことを見れば、確かにそう言うしかないところがある。「Meiji Restoration」の主要な担い手は、下級武士やせいぜい郷士であり、農民や職人、商人ではなかった。それは武士階級による王政復古であり、民衆による革命ではなかった。これによって、我々は天皇という前近代的な遺制を引き継いだまま近代国家を造ることになったとも言えるし、「私は罪なくして死ぬ」と民衆に訴えたルイ16世の首を刎ねた、革命という野蛮を経験しなかった、とも言える。

 いずれにせよ、そうした歴史的条件を一つの要因として(もちろんその後の資本主義社会の展開と浸透、消費を礼賛し、一切を金銭的なものに還元するシステムによるところも大きいと思われる)、僕らには「お上」との距離を測りかねているところがある。適切な距離感の喪失は、一方では国家を極端に内面化し、たとえば国家-家族-個人が相似形でなければならない、というイデオロギーとなってあらわれる。(いわゆる「ネトウヨ」的精神性について、それが近代合理万能主義への批判として前近代の智慧を取り戻すことや、伝統を見直す態度としての保守主義ではなく、資本主義によって矮小化された欲得尽くの「合理主義」の現れにすぎないことについて。)
もう一方では、状況への適切な批判を超えた政治不信、改良のための懐疑ではなく対象を破壊してしまう懐疑によって、不信の原則で一切の政治的営為を眺めようとする態度としてあらわれる。(巨象と群盲、渡辺一夫のユマニスムについて)いまやそれは政府-メディア-国民のあいだでの相互不信に発展しているように見える。民主主義的ではないという以上に、不信の原則を基準に物事を進めようとするのは、現実的にあまりにもコストがかかり過ぎる。

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映画《十二人の怒れる男》について。漠然とした不信を超えるための一つのヒントとして。

・画に大掛かりな動きもなく、華やかな男女や衣装が画面を彩るわけでも、賑やかな歌や踊りがあるわけでもないのに、白黒の画面で一つのことを熱心に話し合っている男たちを観ているうちにぐいぐいと惹き込まれる。これはアメリカ的な精神の最良の部分を切り取り得た作品の一つだ。

・議論というものがしばしば退屈なのは、それが抽象的なものばかりを扱っているからだ。たとえソクラテスの産婆術が忘れられたとしても、僕等は探偵小説を好む心性を持っている。乏しい証拠を徹底的に検証しながら事実に迫っていく手附きの鮮やかさが面白いのは、それが社会的な関心と結びついているからでもあるが、ルールを熟知した最良のゲームプレイヤーを眺めるのは一種の娯楽だからに他ならない。ヘンリー・フォンダはソクラテスで、ホームズだ。

・繰り返される“Reasonable doubt”の語が強く印象に残った。理性に基づいた懐疑。覆し得ないと思われた証拠や証言の確かさが、事実の吟味によって揺らぎ、最初は11対1でほとんどGuiltyだった陪審員の意見が、議論が進むごとに次第にNot guiltyへ傾いていく。“疑わしきは罰せず”の原則に基づいて、損も得もない相手の理性的な合議の下で全会一致で決定する。
ヘイトスピーチや文春砲の現代日本に、あるいは米国での8chanに集う“QAnon”を始め、陰謀論めいたものまで持ち出して他者を裁こうとするネット社会に、最も欠けた精神ではないか?

“Juror #8: It's always difficult to keep personal prejudice out of a thing like this. And wherever you run into it, prejudice always obscures the truth. I don't really know what the truth is. I don't suppose anybody will ever really know. Nine of us now seem to feel that the defendant is innocent, but we're just gambling on probabilities - we may be wrong. We may be trying to let a guilty man go free, I don't know. Nobody really can. But we have a reasonable doubt, and that's something that's very valuable in our system. No jury can declare a man guilty unless it's sure.”

・理性的な議論を通じて、何人かの登場人物の偏見が明らかになっていく。彼等は体質的に知的懐疑というものを嫌うために、高圧的な態度で自らの固定観念に基づく結論を強弁しようとするが(みなWASPと言われる白人エリートである)、他者を納得させる事はできない。続く議論に痺れを切らして差別意識を露わにした一人の陪審員が話し続ける中、男たちは次第に立ち上がり背を向ける。ーーーネット社会ではこの厳然たる拒否が見えない。エコーチェンバー現象によって、偏った意見が強化増幅されてしまう。

・ほとんど一つの部屋だけで話は完結する。優れた戯曲さえあれば一つのホテルどころか一つの部屋があれば事は足りる。安楽椅子探偵というのもいるくらいだ。

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4月15日現在、自民党二階幹事長と公明党から一律10万円の現金給付が提案され、政府は前向きに検討する方向であるという。

もう一つ、この非常時に顕在化したのが、経済格差の存在とそれに苦しむ声だ。トマ・ピケティをはじめ、資本主義社会において経済格差は拡がる一方であることがようやく理論的に言われ始めたが、GAFAの台頭を象徴とする大企業による市場の寡占など、現実は理論を先取りする勢いで進行している。

ケン・ローチが引退を撤回してまで撮った《家族を想うとき》の原題は「Sorry We Missed You」。配達不在時の定型句だが、経済的に疎外されゆく人々へ向けられた言葉のようでもある。Amazonの倉庫らしき場所から出発する“ギグエコノミー”(Uberなど、非正規雇用で単発の仕事を請け負う形態のこと。日本でも少しずつ始まっている)が労働者に課す構造的な矛盾が、2008年の金融危機以降ギリギリの生活を続けてきた一家に襲いかかり、軋み、壊れてゆく。劇伴を殆ど使わない淡々とした映像のリアリズムが、そうした題材を際立たせる。等価交換の原則に基く利益で結びついているわけではない集団である家族を中心に据え(家族は果たして時代遅れの装置でしかないのか? たとえば漢文脈に流れる「孝」という概念を一顧だにせず書かれる西欧的「近代家族論」を鵜呑みにしてよいものだろうか?)、厳しい状況の中で示されるhumor、humanityが描かれもするが、ホームドラマの甘さは全くない。観終えて重いものが残る。

『Factfullness』によれば、日本は相対的には世界でも有数の恵まれた生活環境にあるが、それでも若い世代の実感として、現実はどうやら日に日に困難なものになりつつある。それはまずは構造的な要因による社会的な事象であって、僕らはそこで何が起きているのか、正確に、余計なイデオロギーや感傷抜きに見据え、それぞれの立場から、断絶を深めるのではなく熟議をなし、政治というツールを通じて変えていかなければならない。
 しかしまた同時に、政治は魂の問題を扱うことはできないし、また扱うべきでもない。個人のうちの集団的な部分こそが政治の領域であり、だからこそ誰の一票であっても同じ一票としての価値を持つ。政治はむろん最終的には個人の為にあるべきだが、個性の複雑な輪郭をいちいち気にしていては成り立たないというジレンマを抱えてもいる。民主主義は少数派に配慮する、しかし配慮とはなにか? 結局それは「他者」といかに対話するか、という問題に帰着する。
 政治は魂の問題に深入りすることはできないし、テクノロジーの発展は、他者への根源的な渇望と暴力的な拒絶のあいだの葛藤を、本質的には解決し得ない。精神的にも物理的にも困難な現実に、人は独りでは立ち向かえない。

九十九匹のための最善の政治と、一匹のための強靭な文学を。
そして、苛立ち、苦悩し、葛藤しながらも、他者に耳を傾けること。対話すること。

対話は、相手の話を、直かに、発言の由来を踏まえながら、時間をかけて聴くことから始まる。

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時間をかけて聴くこと。耳を澄ますこと。なぜこんな当たり前のことがいま改めて問われねばならないか、といえば、それは現在僕らが置かれている状況が、人類史はじまって以来の当たり前ではない状態にあるからに他ならない。

2020年4月15日、ワシントンポストが、日本政府がSNSでのイメージ対策に約24億円を投じたことを報じた。

情報化社会、と呼ばれる奇妙な状態に僕らはある。資本主義を交換という側面から捉えるとき、交換されるものが物品にせよ、貨幣にせよ、言葉にせよ、物がある場所からある場所へ、時間と手間をかけて移動される、ということが当然の前提だった。電子テクノロジーはあっさりとその前提を覆す。AmazonにせよpaypayにせよTwitterにせよ、伝達の時間を限りなくゼロに近づける、おまけにその範囲を地球規模に拡大する、というところにその革新性の重要な一面がある。いまやあらゆるものは情報と化しつつある。これは比喩ではない。お金というものの根源的なあり方が五十年前に変わってしまったのを、僕らはそれほど深く知っているとは言えない。米大統領ニクソンが金とドルの交換を停止したとき、そこで起きたのは物を本位とする価値体系から、情報を本位とする価値体系への、根本的な転換だった。ある経済学者は、錨を失ったドルという難破船が世界を漂流している、とこの状況を喩えた。2007年末から起きたサブプライム住宅ローン危機、《Sorry We Missed You》の一家が厳しい状況に追い込まれる発端となり、リーマン・ショックとして世界恐慌に結び付いていった事象の背景にも、こうした世界の変化がある。

なお、粉川哲夫によれば、「情報化社会」とは1960年代の日本で誕生し、英語に翻訳された概念語である。また、世界で初めて携帯電話をインターネットに繋いだのも、99年、世紀末の日本の「iモード」だった。

それでは情報とは何か。これまでに様々な定義が試みられてきた。例えば解剖学者の養老孟司は「時間的に変化しないもの」が情報だと言う。時々刻々と変化していく「もの」の世界、われわれ自身の流転するありかたに対して、情報は時間変化を被らない。旧い情報、というとき、変わるのはわれわれであって情報ではない。こうした根本的な性質の違いに目を向けなければならない、と氏はいう。このように考えるとき、メディアが人間の知覚を拡張する、と考えたマクルーハン的な観点は、もう一度再考に付されなくてはならない。

情報というものから日本の現代社会を捉え直そうとしている、もう一人が東浩紀である。

(『一般意志2.0』以降について。68年の亡霊、ポストモダニズムのゾンビ---日本では既に20年前に死を確認され、9年前にとどめを刺されたはずの---を祀りあげるより、置き去りにされてきたモダニズムの批判的アップデートを図るべきことについて。)

(浅田彰が『構造と力』の図表で小林秀雄を「プレモダン」に分類しつつ(間接的に)批判していることについて、近代批評の参照点としてのC.グリーンバーグとの比較において。)

(言葉が、情報から抽出される意味や概念というものだけではなく、肌理やあやを持つ、ということについて。ソシュールを超えて。「かたち」に執着するベルクソン、ヴァレリー、小林秀雄、ギブソンらについて。)

(別稿?「もののあはれを知る」を認識論として読む小林秀雄の読みの可能性について。「紫文要領」の用例に則して。人情沙汰や「情緒至上主義」として読む、村岡典嗣、津田左右吉以来、坪内逍遥、丸山眞男を経て日野龍夫や渡部直己に至る、宣長のテクストに対する偏頗な読み、曲解について。虚構と現実の区別を踏み超えていく、神話以来の物語の想像力を、いかに救い出すかについて。)

etc.

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