てんでんの時間


 “時計屋の時計春の夜どれがほんと”。

 夜道には春の風が吹いている。裏路地を歩いていると、時計屋に行き当たる。古びてはいるが綺麗に磨かれた硝子の向こうでは、沢山の時計が蠢いている。金ぴかのもの、フクロウを模したもの、置き時計に懐中時計、ちくたくちくたく、めいめいに時を刻んでいて、どれが正しい時刻を指しているのか、一向にわからない。
 時の迷路にまよいこんだようなその揺らぎ、遊離の感覚が、春の夜の闇はあやなしと詠まれ、ただ春の夜の夢のごとしと語られてきた「春の夜」と、かなにひらかれた「ほんと」に託される。
  三字に四字の変則的な中間切れと、下五の字余り、そして繰り返される t の音が、奇妙なリズムを生み出し、ユーモラスな響きを与えている。
 かわいらしさと、虚実皮膜のあやうさ。

 「どれがほんと」? 古本の万太郎句集の活字を指でなぞる。繁華街の隅の、世間から置き忘れられたようにひっそりと静かな喫茶店の、破れだらけのソファ。
 ふと目をあげれば、くすんだ壁にはなんとも無表情な時計が掛かっていて、思わずじっと見つめてしまう。
 見つめられることに慣れていない時計は、知らん顔で(しかしやや気まずげに)、こつこつ律儀に自らの務めを果たしている。
 盤上の針の追いかけっこの機械的な正確さを眺めているうち、かすかにめまいのようなものを憶える。冷えた足がかすかに痺れている。コーヒーの香りが近くからするが、カップはどこにも見当たらない。


 ほんとの時間、なんて本当にあるのだろうか。
 理論物理学の量子のメスでばらばらにされた果てに残る時間のイメージは、宇宙いっぱいに散らばった、向きも大きさもまちまちな円錐の砂時計が告げる、けっして一様には流れないようなてんでんの時間であるらしい。
 極大と極小を含みこんで計算しようとするなら、過去も未来も意味をなさず、時間はもはや流れない。
 エントロピー、分子の乱雑さは増える一方でけして減ることはない、そういう現象の正確な観察から帰結するはずの時間の矢でさえも、人の目のスケールの粗さがもたらしたかりそめのイメージに過ぎない。
 “過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想”、ニュートンがかつて発明した神のごとき普遍の時間 t は、どうやら物理学の内部から融解しはじめている。

 生活のスケールでさえ、時間は一つきりではない。
「カムチャッカの若者がきりんの夢を見ているとき /メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている」。
 東京は夜の七時、ならリオは朝の七時。それはもう、驚くまでもない普通のことだ。
 回路図を模した田中敦子の絵のように、電波で繫がりあった世界で、人々は当たり前に朝をリレーする。
 iPhoneのアプリをひらけば、そこには各国の標準時が並んでいて、ひとたび海外に出ればわたしたちは様々な時計を電車のように乗り換えていく。

 江戸っ子たちは「いま何刻だい?」なんて言いながら、鐘の音でだいたいの刻を把握する、それが彼らにとっての時間だった。
 かつてのパリ駅の時計は、遠方より来る旅人たちのためにわざとすこし遅らせてあったという。
 秒針で刻まれるような punctual な時間のイメージは、歴史的に見ればごく新しいものにすぎない。
 ゆったりと始まる能のテンポ、きびきびとした歌舞伎のダイナミズム。かつ消え、かつ結ぶ泡沫のように、生々流転する時間たち。しかしいまや、《モダンタイムス》でチャップリンが告発したような、ベルトコンベアに支配された工場の時間のイメージ、一刻の猶予もないテレビや、さらに早送りされる動画の時間が、娯楽の中心を占めている。

 映画の中にも、てんでんの時間がある。
《バック・トゥ・ザ・フューチャー》や《時をかける少女》の時間。
《メメント》や《エターナル・サンシャイン》の時間。
 そこでは、時間や記憶は切り貼りされ、何度も繰りかえされ、簡単に停められたり遡れたりする。
 (朝の天気予報は一週間の雲の動きを何秒かで早回ししてみせ、動画サイトではワンクリックで時間を飛ばしたり戻したりできる。)

 アラン・レネの、黒澤の、タルコフスキーの、アンゲロプロスの、ヴィム・ヴェンダースの時間。
 撓み、歪み、ぐっと緊張したかと思いきやふわりと弛緩する、天使のように冷酷で、チョコレートのように親密な時間たち。
 そこにしかない時間の流れに身を浸すことがどれほどの快楽か、視覚と聴覚と時間を捧げれば、映画の悪魔は教えてくれる。

 山戸結希《おとぎ話みたい》の、少女という異形を言祝ぐための度外れの性急さ。濱口竜介《ハッピーアワー》の、たとえばふだん凝視することのない歩道橋を眺める時間のうちにある、灼け付くような眼の悦び。清原惟《わたしたちの家》のねじれて繫がる時空、それをすんなり観れてしまうことのふしぎさ。岩切一空《聖なるもの》で辿りついてしまった八月三十二日の砂浜のバグのような時間。タル・ベーラ《サタン・タンゴ》で少女と一緒に耐えた永劫回帰のステップ。
 それぞれの「固有時」の、あられもない豊かさ。

 映画の官能はまた、支配される愉しみでもある。
 日常を離れた特別な時間の前で、人は時計の衣を脱ぎ、その流れのなすがままに身を委ねる。
 映画館の照明は落とされている。けれど、上手に脱ぐのは難しい。生活のために拵えられた、それなりに正確な悟性のボタンは固く、外すのはそう簡単ではない。


  ……酔っぱらいの千鳥足のようなピアノが聴こえて我に返ると、壁の時計がでろりと融けだしている。これはたしかセロニアス・モンクだ。
  突然電話のベルが響き、濃い化粧をした老婆がこちらの席に真っ直ぐ近付いてくる。何か恐ろしいことが告げられようとしている。

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