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旅情奪回 第32回:春が迎える。

私は若い頃から梅が好きだ。漂う、としか表現し得ない、押し付けのない上品な香りと、まるで枯れ木に雪が咲いたような、まだ肌寒い季節にポツポツと花をつける白梅はとりわけかわいらしい。
桜は日本人の心であり原風景だ、というのはよくわかる。しかし、桜の木の下でお酒を片手に春を慶ぶというタイプではないし、花見を口実に騒ぐ趣味もない。

桜には日本人特有の繊細さと、猥雑な混沌が併存している。聖俗がともに棲む処である。浄められつついかがわしさに情を感じる温泉場と同じである。
本来はそうしたカオスを愛する私であるが、この季節の花見には、もっと純化したなにかを求めてしまうのである。

その点は、梅見は静かなのがよい。このあたりが桜見物と大きく違うところである。大きな風物にぐるり抱かれているような、季節と二人きりで見つめ合っているようなじっくりとした高貴な時間を感じてしまう。

桜の名所は数あれど、梅の名所も数はある。しかし、意外に知られていない梅園がかつて住んでいた場所の近くにあって、毎年そこを家族で訪れるのがこの時期のイベントであった。祖父母も花見が大好きだった。寡黙な祖父は梅を好み、明るい祖母は桜を愛した。

祖父は足腰が強く、90歳近くまで杖なしで起伏のある梅園を歩いた。後ろ手を組み、独りでどんどんと先を進む。ときどき立ち止まっては、じっと梅の花のついた枝に顔を近づけていたりする。
祖父の晩年には毎年、これが一緒にできる最後の花見になるかも知れないと思いながら梅園に通ったが、祖父はどんな気持ちで梅と話をしていたのだろうか。そして、あの二月が最後の花見になると気づいていたのだろうか。

振りゆく白梅に包まれて仙人のように立つ祖父の美しい姿がいまも忘れられない。東屋でペットボトルからお茶を飲みながら、家族四代であの甘い香りに包まれた刻を忘れることができないのである。

梅であれば、なんということのない街並、ありきたりな日常の中で、誰かの家の軒先に鉢が植えてあったりすることも多い。そんなのもいいものだ。
信号待ちで、いつもならなんとも思わない背後の路地から梅の香りがして思わず振り返ったりする。そこに、まだまだ小さな白梅が鉢に植えてあると、春を迎えるのではなく、これぞまさに春が私を迎えにきてくれたようにさえ感じる。

自分が歩み寄った距離よりも、相手が迎え駆け寄った分だけ愛が深いというのならば、見返りを求めるでもなく漂ってくるこんな香りというのはそういうものではないだろうか。二月は梅の香りが、春が、私を迎えに来てくれる。(了)

Photo by KIMDAEJEUNG,Pixabay


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