一中節の始まり-初世都太夫一中
「稽古本がない家はない」
江戸時代、享保19年(1734年)に初演された一中節(いっちゅうぶし)「夕霞浅間嶽」(ゆうがすみあさまがだけ)は人々に愛され、大流行し当時江戸中の人々が稽古をしていました。「夕霞浅間嶽の稽古本がない家はない」と言われるほど一世を風靡します。
スマートフォンで音楽を持ち歩き、サブスクリプション(定額制)の聴き放題など現代では音楽の楽しみ方は多様ですが、当時の人々は劇場やお座敷で生の演奏を聴くほかには、自ら稽古をして音楽を身体の中に取り入れ、体現することが音楽の主な楽しみ方でした。同時に稽古をすることで鑑賞力も養っていました。
一中節を創始した都太夫一中
一中節 夕霞浅間嶽の初演から遡ること約80年、一中節を創始した初世 都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)は慶安三年1650年に京都 明福寺(みょうふくじ)の次男として生を受けます。
名を恵俊(けいしゅん)といいました。寺の5代目住職を継ぎますが、元来音曲が好きだった恵俊はやがて僧をやめ、のちに都太夫一中と名乗り浄瑠璃を語ります。
※浄瑠璃(じょうるり)とは三味線と共に物語を語り伝えることです。
三味線が琉球から泉州(大坂)堺に伝来(1558年〜1570年頃)し約100年後の当時は三味線音楽が大変盛んになっていた時代です。堺に伝来したのちも三味線は様々に改良されていきます。現代では「三味線」は日本の伝統楽器ですが、当時は最先端の新しい楽器でした。
都太夫一中の「太夫」(たゆう)は浄瑠璃を語る人のことを指します。都一中という名には、音楽により京都の人々の心を一つにしていきたいという強い思いがあったのではないかとその名から、また初世の作曲された曲から感じています。
絵画・琳派の尾形光琳、歌舞伎・浄瑠璃作者の近松門左衛門、義太夫節を創始した竹本義太夫、俳諧師の松尾芭蕉と初世 都太夫一中は同世代です。
出典:Wikipedia 『紅梅白梅図屏風』 (尾形光琳)
彼等が創り出した作品に代表される文化は、後に元禄文化と呼ばれます。産業が発達し、上方(大坂・京都)において経済力に余裕ができ始めた町人を中心とした文化です。
洗練され美しく高度な芸術が日常に溢れる中、貴賎上下関係なく多くの人々にそれらの芸術を理解し楽しむための素養がありました。人々の感性は日々磨かれ、豊かな文化が育まれました。明るく活気に満ちた時代であったと言われます。
その頃、都太夫一中の語り始めた浄瑠璃は「一中節」(いっちゅうぶし)と呼ばれ、人々の心を魅了していきます。
今から300年以上前のことです。
※一中節の一節を解説と共に音声でご紹介しています。
水面に映る光の揺らぎ https://note.com/ryochu/n/n8c6698a3b245
月から宇治へ https://note.com/ryochu/n/n2e5601f3aac2