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子どもを本当に信頼できているのか? / 「にもかかわらず信じること」『手の倫理』より


子どもと日々ぶつかったり、愛情を確かめ合ったりしながら過ごしていると、この親子関係は絶対的なもので、前提としてお互いに信頼関係を築けていると認識している。

信頼関係を築けていると思いたいだけなのかもしれない。

それでもやっぱりけんかをしたり、怒ったりすると、子どもからどう思われてるのか信頼されているのか少し不安にはなる。


ただ、それより自分のなかでひっかかったことは
自分が子どもを本当に信頼できているのか?

無条件に感情でも頭でも子どもを信頼していると思っている。
そんなこと疑う余地はない。

それなのに、けんかをしたり、怒ったりしている時の自分の接し方や態度は、はたして本当に信頼していると言えるものなのだろうか?


『手の倫理』という本を読んでそんなことを考えている。


「安心」と「信頼」



信頼は、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性のゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないだろうと考えることです。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じることをいみします。

要するに、安心とは、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと、信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということです。

ポイントは、信頼に含まれる「にもかかわらず」という逆説でしょう。社会的不確実性がある「にもかかわらず」信じる。この逆説を埋めるのが信頼なのです。

手の倫理



子ども側から見てみる


この「にもかかわらず信じる」とはどういうことか?

基本的に親からの愛情をうけている子どもは、怒られたりしてネガティブな感情を持ったりすることもあるだろうが、親のせいでひどい目にあうという不安は無さそうなので、「信頼」というより「安心」しているのかもしれない。

子どもが怒られている場面で、自分の為を思って親は怒っていると感じているならば問題はないのかもしれないけれど、親の都合や、親の思い通りにしたいなどの裏に隠れた気持ちを感じとった瞬間に、ひどい目にあったと受け取ってしまう可能性がありそうだ。

ひどい目にあったと受け取った先には、親に対して「にもかかわらず信じる」という概念がうまれ、「安心」してはいられず「信頼」するか、しないのかの判断になってしまう。


子育てをしていると、親に対してひどい目にあうと意識しない「安心」の感情だけで成長していって欲しいと思うのだけれど、親だって完璧な人間ではないので間違いや、失敗をして子どもにネガティブな感情を与えてしまうことは避けられない。

親に対して疑いのない「安心」に固執するのではなく、「信頼」してもらえるように「にもかかわらず信じてもらえる努力」をし続けることを目指していければ良いのかもしれない。



親の自分側から見てみる


子どもに対して「にもかかわらず信じる」ことはできているのだろうか?

頭では無条件にできていると思っている。
でもそれは本当なのか?

ポジティブな事柄や、成長のために必要だと思えることに関しては「にもかかわらず信じる」ことができているのだろう。

反対にお互いにぶつかってしまう。言うことを聞いて欲しい。自分の都合中心。などなどコミュニケーションがうまくいかないネガティブな状況では「にもかかわらず信じる」ことができているのか自信がない。


たとえば、「待つ」ことで考えてみる。

子どもに早くして欲しい場面は日常茶飯事で、言うことを聞かせたい。そんなとき怒ったり、無理やり誘導したりして結果的に言うことを聞かせてしまっている。

子どもがずっと言うことを聞かず、早く行動を取らないということを受け入れることができていないのだ。

自分の不利益を受け入れ、「にもかかわらず」信じて「待つ」
そんなことできていないのが正直なところだ。


「待つ」ことに限らず、親である自分の都合を優先する。教育上したほうが良いと思っていること。感情的になってしまうこと。などなどいろいろな場面で「にもかかわらず信じる」ことができていないことに気づく。

『手の倫理』に書かれている「信頼」の定義でいうと、
子どものことを「信頼」できていないということになる。


子どもの未来を想像して「信頼」できるか?


子ども自身や親子関係で、過去や現在の成功体験の積み重ねが「安心」につながっていくのだろう。

ただ成功体験ばかりではない状況では、「安心」することすらできない。


「信頼」とはどうすればできるのか?


近いからこその衝突もあり、直接的に親の自分にとって不利益になることもある。

さらには、子ども自身に不利益が生じることに関しても、過去や現在、未来にいたるまでいつまでたっても親の自分から見たら心配だし危なっかしく思ってしまう。
この心配する気持ち自体がすでに不利益でもある。

子どもの成長や、将来を想像し希望を持ったり、ワクワクする「未来」に焦点を当て、過去や現在の自分に対して、はたまた子ども自身に対し不利益が生じることを、ある意味あきらめて受け入れる覚悟が「信頼」には必要なのだ。

子どもの「未来」を信じて「にもかかわらず信じる信頼」の境地にはたして到達できるときは来るのだろうか?

きっと不利益を受け入れられるときもあれば、受け入れられず先回りをしてしまったり、衝突するときもあるというような、行ったり来たりするしか出来ないのだろう。


うまくいくことだけが素晴らしいことではなく、重大なことでない限りはうまくいかないときがあったって、将来の何かしらの糧になる場合もあるのだと受け入れる「緩さ」もきっと大事なのだろうと少しだけ正当化してみようと思っている。

「安心」をしてしまうくらい不利益を意識しない状態になってしまうと、子どもをどうすればより分かるようになるのか、どうすればより共感できるようになるのか、より繋がりが深くなるのか、それこそ意識しない状態になってしまいそうだ。

「緩さ」によって不利益は生じてしまうのかもしれない。

だからこそ不利益を解消するために、余計に子どものことをよく見て、よく考えていくこと。「振り子」のように行ったり来たりしながら「緩さ」の方に反動をつけることで、「にもかかわらず信じる信頼」という境地に触れることができるのかもしれないなと感じている。



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