サイレントマジョリティにおさまらないように。
「サイレントマジョリティ」
多くの人は欅坂46(現櫻坂46)がリリースした曲の方が頭に浮かぶかもしれない。
しかしここでは本来の言葉の意味として考える。
それでは本来の言葉の意味とは何か。それは、
「静かな多数派」「物言わぬ多数派」「声なき声」
などと言われている。
つい先日、私はこんな記事を書いた。
力なき声はただの遠吠えだ
私自身記事に書いたようにそう思っている。だけど多少そこに矛盾したとしてでも思うことがある。
「サイレントマジョリティには収まりたくはない」
と。
例えその言葉に「力」がなかったとしても、上げないよりはあげた方がいい声はある。
そして何よりも自分の声、自分の意見を持てる人間でありたいと。
過去の自分は他者の意見に迎合するだけの人間だった。
自分ならどんな状況でもなんとでも対応できると言えば聞こえはいいかもしれない。ただ悪く言えば自分の意見を持つことから逃げていた。
それはつまり自分の言葉に行動に、責任を持つことから逃げていた。
だけど徐々に気づいていく。
声を上げないことの辛さを、そしてそのもったいなさを。
声を上げないことにより気づかぬうちに振り回され、流されていく。
声を上げない風潮は、社会全体にも蔓延している。
そこには2つの側面があると考える。
「声を上げると叩かれる」「声を上げても意味がない」
”出る杭は打たれる”
一時期よりは挑戦する風潮というのも定着してきてはいるが、未だに出る杭が打たれる状況は残りつつある。
同じであることが求められ、違うものは潰される。
その原因は「自分は我慢しているんだぞ」という嫉妬からなのか、「組織の輪を乱すな」という圧力なのかはわからない。
だけどそんな嫉妬は自分次第で変えられるし、よっぽど組織の輪を乱すならまだしもイエスマンだけ揃うのもいかがなものかと思う。
確かに声を上げると叩かれる側面もあるのかもしれない。
でも叩かれる覚悟を持ってでも上げなくてはならない声もある。
そして自分の声に覚悟を持てば多少の雑音は気にならない。
サイレントマジョリティに収まることで不都合を被るのは自分自身だ。
もう1つ、「声を上げても意味がない」そのように考えるパターンもある。
現代の社会で問題になっているのは選挙への投票率だろう。
どこの政党も支持しない「無党派層」が増えている。そしてそもそも選挙への投票率も特に若者は低いと言われている。
「どこに投票しても変わらないだろう」
そういった諦めなのか、無関心なのかわからないが声を持たなくなる”声なき声”が増えている。
だけどどうだろう。
”声なき声”が増えることで得をしているのは声を上げている人だ。
自ら不自由な道を選んでいるに他ならない。諦めてもいいことなんてないんだ、そう思う。
変わるのを待つんじゃなく、自分たちから変えていくしかない。
声を上げるには勇気が伴う。
知識、覚悟、責任、その他もろもろ。いろんなものを持たないといけない。もちろんそれなりのリスクはある。
だけどリスクを抱えてでも自分の声を大切にしたい。自分の意見を持てるようにしたい。そうしなければならないときがある。
サイレントマジョリティに収まりたくない。
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