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楽しめるのも才能、悩めるのも才能

人は皆、何かしらの「才能」を持っている。

すごく陳腐な表現かもしれない。でもそう思う。普段働いている中で、これまで様々な人と関わってきた中で、そう感じている。



楽しめるのって才能だと思う。

どんな作業でも熱中して取り組める。私が関わっている農福連携を例にとってみたい。

作業って常に同じわけではない。確かにある一定の期間、同じ作業を継続する時期があるけれどせいぜい1か月くらい。仕分け作業をするときもあれば、出荷作業をするときもある。その一方で、リース作りのような作業をすることもある。

そりゃ誰だって、作業に得意不得意はある。

でも中には、どの作業に対しても、

「この作業楽しいです」

目をキラキラ輝かせている方がいる。どんな作業でも楽しめる。これってめちゃくちゃすごい才能だと思う。

楽しくない作業は長続きしない。やらされ作業は結果にも表れる。きっと多くの人はその中で折り合いをつけて耐えている。

楽しめるってそれだけでも主体的に取り組める。向上心も高くなる。「楽しめればいい」とわかっていても、それは簡単なことではない。

だから「楽しめる」は才能だ。


もう1つ。

「悩める」も私は才能だと思っている。

上記の”「楽しめる」が才能”というのはわかりやすかったかもしれないが、”「悩める」も才能”には「ん?」と思う人もいるかもしれない。

だって「悩む」って、どちらかというとマイナスな印象の言葉だから。


でも私は捉え方によっては、むしろ超前向きな言葉だと思っている。

悩むって、つまり現状に満足していないってことだと思う。

今の状態に納得がいかない、もっと上手く出来るんじゃないか、もっと成長出来るんじゃないか、本当にこのままでいいのか。なんとか打開したい。

向上心の塊だ

人間、現状に満足したらそれより上はないと思っている。「今の限界」はあっても「未来永劫の限界」はないんじゃないかと思っている。綺麗ごとかもしれないけど。

でも自分が探求を止めなければその挑戦というのは終わらなくて。
先の道を創ろうと思えば自分次第でつくれると思う。ほんとに自分次第。

悩まないことが悪い、というわけではない。
悩むことが悪いわけではない、むしろ素敵なこと、ということを伝えたい。



私は普段「支援員」という立場で、支援を行っているけどだからといって偉いわけではない。

なんなら誰もが誰かの支援者で、誰もが誰かの被支援者だ

私だって家族から支援されて育ってきたし、今も先輩や上司からある種、「支援」されている。

つまりみんな支援しながら、支援されているんだ。

じゃあ支援する側に何が出来るかって考えると、まずはその人の才能に気づかせてあげることなんじゃないかな、って。その人にとっては当たり前でも、他の誰かにとっては当たり前じゃないことってある。

それが才能だ。

でもその人にとっては当たり前だから、自分の才能ほど自分では気づけない。

支援者が出来るのはそれを気づかせてあげること。そしてそれを尊重してあげること、より伸ばしてあげること。


自分で文章を打ちながら、身の引き締まる思いだ。

相手の素敵な部分を見つけ、伝えてあげる。そして一緒になって伸ばしていく。何気ない一挙手一投足一思考が、実はものすごい才能かもしれないから。

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