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肩書というのは責任だ
広報という立場になって思うことがある。
「肩書」というのは責任だ、と。
広報という仕事、特に今自分が担っている・これから担っていく仕事は一言に集約することはできないけど、無理やり一言でまとめるとすれば「発信する」仕事だ。
文字で言葉でデザインで、SNSで広告でガイドラインでマニュアルで。
社内に社外に、興味ある人に初めて触れる人に。
手段も、場所も、対象もその時々によって変わってくるが「自分(たち)のことを届ける」という点では変わりはない。
じゃあ自分の好きな分野じゃないか。
noteだったり、Xだったり、いろんな媒体や場所で何かを発信することは続けてきたし、表現することは大好きだ。
実際やりがいあるし、好きなことをやれている。
と同時に、違う部分も感じている。
それは「言葉に出来ない」は通用しない、ということ。
「センスがいい」「なんとなく」「偶然」「エモい」
上手く表現できないことを”それっぽい”言葉で片づけることがある。
なんならその上手く表現できない感じが趣きを感じさせることだってある。だから個人の表現の時はあえてそういうスタイルにすることもあるし、言葉に出来ない感覚をさらけ出すことだってある。
そういった部分に余白を与えることで、見ている人に考えてもらうことだって出来る。
だけど「広報」という肩書はきっとそれではいけない。
その肩書には『説明責任』がある。
自分たちの取り組みはどういった想いでどういった内容で行っているのか。これまでどんなやり方をしてきて、どんな見られ方をしたいからどんな見せ方をしているのか。今後どうしていくのか。
どうしてその言葉選びなのか、どうしてその写真構成なのか。
どうしてそのフォントか、どうしてこの色なのか。
その1つ1つを理由をちゃんと説明できなきゃいけない。
その上で相手に理解してもらわないといけない。
一方的な「伝える」じゃダメだ。
別にこれはきっと広報に限ったことじゃなくて。
それぞれの役職、職種ごとにその肩書だからこその責任があるだろうし、もっと身近であれば「親」とか「親友」とか、そういうのも1つの肩書だと思う。
その肩書だからするべきことがあるし、その肩書だから出来ることがある。
それは”求められている”ということの裏返しでもある。
肩書には責任と誇りを持って。
そのための学びと行動を。
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