する先回り、しない先回り
本題に入る前に、私のnoteの書き方の一例をご紹介したい。
過去の記事で、noteを書くときはいつもタイトルから決めるということを書いた。
じゃあどんなタイトルにするかというと、やっぱろ読んでみたくなるタイトルで。じゃあどんなタイトルが読んでみたくなるかっていうと「なんかカッコいい」とか「なんか口に出したくなる」とか「正反対のものを並べている」とかそれこそ単純に「興味がある」とか。
個人の見解ではこんな感じ。
と一つ手の内を明かしたところで、今回もタイトルの記事について書いていきたい。
最近「支援」のことについてnoteで記事にする機会が増えてきた。支援に関する視点はTwitterの方で毎日上げているのだがたまには140字以上で表現したくなる。
ということでタイトルにある通り「先回り」について。
よく上司がいっていた言葉がある。
「やってあげることばっかりがいいことじゃない」
「究極の支援は”何もしない”こと」
「なるほど」と思いながらも、最初の頃は「ん?どういうことだ」と思う自分もいた。支援って与えるもの、何かやるものだと思っていたから。
もちろん言葉を鵜呑みにして、何もやらずに放置しておくことが正しいとは言えない。究極のゴールとして「なにもしなくていい」状態が理想だよね、という話だと認識している。そこにたどり着くまでの過程では様々なサポートをしていく。
それを踏まえたとしても支援ってどうしても「やってあげたい」が先行してしまうことってある。だってそれが仕事だから、って思うことも。
そして恐らくきっとその「やってあげる」が正解になる支援のかたちもあると思う。場所によって。
でも一つ言えることとして就労支援施設はそれが正解じゃないってこと。
就労継続支援だとしたらお金をもらいながら働きに来ている場所なわけであって、就労移行支援では一般就職や復職に向けて訓練する場所であって。常に誰かが助けてくれる場所じゃないし、ステップアップすればするほど「やってくれる人」はいなくなる。
だから支援員のそのやってあげるという「優しさ」は実はめちゃくちゃ「本人の自立」を考えると優しくないといっても過言ではないんだ。
そういった意味で「支援の先回りをしない」って上司が言っていたんだろうなということに1年働きながらようやく気付いた。
支援の先回りをしないはイコールで「やってあげることに満足しない」にもつながっていると思っていて。その支援は何のための支援なのか、という部分は常に意識しておかないと行動の選択基準があいまいになってくるなって思う。
と簡単に言ってはみるものの、「何もしない」って実は結構しんどいことだ。手を貸した方がいい、って気づいているときであればあるほどなおさら。やってあげた方が気持ち的にも楽だから。
そういった「しない先回り」に対してじゃあ何が「する先回り」かって考えた結果現時点でたどり着いた答えが「準備の先回り」だ。
「あ、困ってそうだな」とか「あ、ちょっと大変そうだな」ということに気づくアンテナを常に張り巡らせておく。その中ですぐに手を貸すんじゃなくて、自らヘルプを求めてきた時だったり、本当に危なくなる2,3歩手前だったりですぐにサポートできるだけの準備をしておくということ。
本当に危険な状態だったり、本当に考えることを放棄しそうになる手前で支援を行えるように準備すること。だからこれって常に目配り気配りしておかないといけないし、なんなら自分の想定と違うことも全然あり得る。
「支援の先回り」より難しい気がする。
でも利用者さんにとっても支援員の声が響くのって本当に自分が困ったときだと思っていて。
というかこれは誰にとっても共通しているんじゃないかと思う。自分の親のことを想像してほしい。自分が困る前に悩む前に手助けされることが当たり前になってしまうと、一体自分は何が出来て何が出来ないのかわからない。それにそんな状態で注意とアドバイスをされても現実味がなくて話が入ってこない気がする。
でもそこで、実際に困って実際に悩むことで自分の現在地を知る。現在地を知ることで周りからのアドバイスがすんなり耳に入ってくることがある。
要はそういうことだと思っている。
それに本当に困った時に手を差し伸べてくれた人に人は信頼を寄せていく。いつなんどきも助けてもらえていたら、そこにありがたみって薄れてしまう。それが当たり前になってしまう。そして自分で考える、ということが出来なくなっていく。
それを「支援」という枠に当てはめて考えたとき、よくないと思う。
する先回り、しない先回り。
これが絶対解かと言われるとわからない。
でも今の自分の現在地としてたどり着いた一つの答えがこれだ。
支援の先回りはしないけど、準備の先回りはする。
徹底的に。絶対的に。
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