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「可能性のノスタルジー」、心に潜む甘美な余韻を呼び起こす本  『赤いモレスキンの女』

人は起こらなかったことについて、ノスタルジーを感じることができるだろうか。

『赤いモレスキンの女』

人生が交わることのない相手。そんな人に、特別な感情を抱いたことはありますか?現実には起こらない、起こることを望んでもいない。しかし、起こり得たかもしれない世界をすぐ隣に感じる、感覚。

うんと前のこと。朝の通勤途中、決まった時間、最寄駅近くの同じような場所で、毎朝すれ違う人がいました。

毎日のようにすれ違っていると、その人は「時計」のような存在になりました。今日はこの辺ですれ違ったから、定刻通り。改札付近ですれ違うときは、とても余裕がある時。逆に、家から遠くない場所ですれ違うのは、少し遅刻している証拠。

次第に、その人も私がその道を通ることを知っている気がしてきます。いや、それは確信だったでしょう。狭い歩道をすれ違う瞬間に、互いの間に一瞬ためらいが生まれ始めます。毎朝すれ違う相手に対する、敬意とでも言うような。

そして、ある朝。

多分とても気持ちがいい朝で、湿度も低くて、空が高く感じた日に違いないのですが、そんな朝に、何の前触れもなく目が合った時。その人の口元は少しだけ微笑んでいて、会釈までいかないくらいの、軽い挨拶を交わしました。

それはほんの一瞬のこと。でも、次の瞬間思わず笑みがこぼれそうになりました。私はその人のことを知らない。きっと最寄駅の近くのどこかで、働いているに違いない人。それだけだけど。

その人の人生に何の関わりもないことが逆に、「彼」を魅力的に見せ、時々交わす、人にはわからない程度の微笑みだけの交流が、少し色っぽいものにすら感じました。

いつの日か通勤時間も変わり、それっきり。それ以上関わらなかったことを、特段残念には思いません。一方で、その人の人生に入り込むことは、もしかしてそう難しくなかったかもしれない、とも思う。そんな空想は、最高に甘美でもあります。

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こんなエピソードを思い出したのは、昨日読了した、『赤いモレスキンの女』(仏題:La Femme au Carnet Rouge)のせいでしょう。一気に読み終えてしまい、しばしロス状態になっています。

パリの書店主であるローランは、道で女性もののバッグを拾います。バッグに入っていた赤い手帳に綴られていた持ち主の世界観に惹かれ、わずかな手がかりを元に、落とし主を探し始めるというストーリーです。

バッグの持ち主の「彼女」に一歩ずつ近づくにつれ、彼女の人生に入り込むもう一つの人生に思いを馳せ、そこで見える風景を身近に感じるようになるローラン。

そして、こんな一節があります。

もう一つの違う人生。その側を通り過ぎる、同時にそれはあまりにも近くにあるので、人はときどき催眠に似たようなメランコリー状態に置かれる時、そうでありえたかもしれない世界の断片をつかむことができるのだ。

『赤いモレスキンの女』

私は、この「そうでありえたかもしれない世界の断片」を感じることが、もしかしたら、人生で一番甘美なことだと思いたい。ありのままの現実よりも、別の人生を生きる自分を想い、そこにノスタルジーを感じるなんて、最高に粋なことだと思うのです。

そしてこの物語は、幾多の偶然や、かすかな閃きが重なり合って、二人の男女を繋いでいくのですが、その展開はとても巧みで、ページを重ねるのが惜しまれるほどでした。

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さて、本書の作者アントワーヌ・ローラン氏は、2012年に『ミッテランの帽子』を刊行しています。この作品を読み、作者の世界観にすっかり魅了されたのが、今回紹介した『赤いモレスキンの女』を手に取った経緯となります。

大人のためのおとぎ話とも称される二作ですが、作家のお洒落すぎる計らいなのか、または、イタズラなのか。本書には、前作『ミッテランの帽子』に登場するフレーズが、全くそのままに出てきたりします。それに気付いた時は、「やられたぁ!」と、作者が最高にお茶目な人に思え、イタズラを共有したような気分にさせられました。

そのフレーズ、とても印象的で素敵な一節だったので、『ミッテランの帽子』読了後の記事にも取り上げています。読書のお楽しみを奪いたくないので、直接これとは言いませんが、2冊読み比べるのもとても楽しい読み方かと思います。

ご興味があれば、是非手に取ってみてください。
皆さんが本作と、最高の時間を過ごせますように。


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