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2021年新作テレビドラマ放浪記

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2021年のテレビドラマの感想記録です。
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#吉田羊

「生きるとか死ぬとか父親とか(第12話)」相談ができるということ、相談されるということ

吉田羊と國村隼が父娘を演じるこのシリーズもこれで最後。前2回は娘から見た母の思い出を語った話だったが、最後は現在に戻る。そして、再度、ラジオのスタジオから。そして、プロデューサーから「昼帯」のラジオをやらないか?という誘い。ジェーン・スーさん、そのものの流れをここにおく。 そして、國村隼との買い物デート。いつものように食い違うセリフの面白さはあるが、母親のことではシンクロする。まあ、世の中の父娘としては、このお父さんは幸せな気がする。ある意味、現代をよく現した話であり、この

「生きるとか死ぬとか父親とか(第11話)」父親との確執を描くという難しさ

このシリーズ、最初に、少し浮世離れした父親の困ったところを描きながら、父娘、家族というものを描いて、その先に、死んだ母親、その時の父親の姿を描く。そして、今回は母が死に、父親の秘密を知り、住み慣れた家を離れなくならなければいけなくなり、家の整理をして、母親の隠していた思いも知るという、なかなか重い回であった。 とにかくも、自分にとって許せないことを書くというのは、簡単そうで難しいということなのだろう。そして、書いてしまうと、読者によっては、それをさらりと流してしまいそうなこ

「生きるとか死ぬとか父親とか(第10話)」松岡茉優にジェーン・スーが乗り移っている緊張感

亡くなった母親のことを描く第二章。なんだろうか?この緊張感は。最近のドラマにはない、重く刹那く刺さってくる感じ。ドラマからこういう感覚を受けるのは民放のドラマからは初めてかもしれない。いや、NHKのドラマにある生真面目さとも違う。この母親を絡めたシークエンスだけ、映画として作っても成立するような重さである。 父が入院し、母も入院してしまい、ジェーン・スーが、会社を辞めて二人の面倒を見に病院通いをしなければいけなくなった話だ。若い彼女の心の混乱がよくわかる。いや、その若いスー

「生きるとか死ぬとか父親とか(第9話)」親族に対する真実を語るということ

先週の田中みな実の話があった後で、今日は相談コーナーは出てこなかった。そして、母親の死に対峙した話がこのドラマのメインイベントのように綴られ始める。 とはいえ、今回は編集者から「お父さんと旅行行って見ませんか?」という話から始まって、母の墓参り、そこで想起される母がいた時の生活。その時から変わらない父親との距離とか、普通のドラマなら、途中で流れて行ってしまうような話を一つのドラマとしてまとめている。この連作の面白さは、そんなささやかな日常をドラマとして成立させているところに

「生きるとか死ぬとか父親とか(第8話)」パートナーに強いること、強いられること

原作にはないストーリー。それは、仕事と私生活のバランス。自分の仕事へのプライドみたいなものを描いた、どちらかといえば、このドラマの作り手たちの相談をドラマに仕上げたみたいな回だった。だからということもないだろうが、プロデューサーの佐久間さんまで顔を出している。そして、テレ東の新人アナウンサーたちも。まあ、この辺は低予算の楽屋落? 話は至ってシンプルな二つの話からできている。まずは、吉田羊が昔のパートナーで一緒に暮らしていた、岩崎う大が故郷に帰るという連絡をもらい、二人の過去

「生きるとか死ぬとか父親とか(第7話)」友人の恋愛相談に答える難しさ

今回は、トッキーこと吉田羊が友人の石橋けいと中村優子の恋愛の話を聴かされて、自分のこと、仕事のことを顧みるお話。最後にお父様役の國村隼は出てくるものの、ほとんど彼が蚊帳の外の話。それはそれで、なかなか面白かった。 同棲カップルの浮気の話の相談から。なんか、こういう話だと、田中みな実が生き生きしているようにも見える。前にも書いたが、彼女のこのアナウンサー姿はなかなか良い。 まずは、石橋けいの夫が不倫をしている話。子供もいるし、簡単に別れるわけにもいかない。吉田に、ラジオのよ

「生きるとか死ぬとか父親とか(第6話)」時代があって、家族があって、父親がいる

親戚の子供の出産祝いの席。自分が生まれる前の父親の話を聞く。父親が気を遣わなかったおかげで、自分の姉か兄になるはずの命が流産に終わった話。ここで、それを話す人々は、その場にいて気まずい父親を責めるのではなく、時代のせいにする。確かに時代の生き方というのはある。國村隼が青春を過ごした時代は確かに父親がやりたい放題であり、母親が家を護るという時代だっただろう。私自身も思うが、今は、昭和の親父は生きられない時代になっている。その変化をこの目で観ている者からすれば、確かに時代というも

「生きるとか死ぬとか父親とか(第5話)」記憶のありかが違う親子。一緒にいてもそんなもの。

もう、これで5回目だが、回を重ねるごとに、吉田羊がジェーン・スーにシンクロしている感じ。着ているもので似させているのだが、吉田羊が女優として、エッセイを書いたご本人を探るうちにそうなっていったのだろう。俳優という職業は、役にいかにシンクロできるのか?というところだと思う。そういう意味では、本当にベストな配役である。 國村隼との、父娘演技も板についてきた。これで、困るのは、次に二人がどこかのドラマで共演するときに、父娘に見えてしまうかもしれないということだ。きっと、そう感じる

「生きるとか死ぬとか父親とか(第4話)」銀座は、それぞれの記憶に残る時代の象徴?

今回は、トッキーさんが、「銀座百点」という雑誌に寄稿したことから、父の國村隼と吉田羊が、銀ブラをする話。なかなか面白かった。こんな、銀ブラ番組を作っても面白いだろう。商店街の活性化とかいうが、「銀座百点」の番組化は、今の時代には有効であろう。今は、なかなか「外に出て!」という時節ではないが、人に外に興味を向かわせるきっかけになればいいのだ。このドラマを見れば「銀座」だって、知ってるつもりが、もう違う街になっていたりもする。世の中はうつろいやすいからこそ、映像に残せる時代には、

「生きるとか死ぬとか父親とか(第3話)」美容ビジネスに男も女もなく、気分の問題なのでは?

今回は、ラジオの相談コーナーの、スキンヘッドの夫が突然、かつらを被ってきたという話から始まる。そしてドラマは、父親の國村隼から、身体がかゆいという電話。食物アレルギーではないかという父だったが、結果は乾燥肌。その上、父は少し前に食物アレルギーの検査をしていたというオチ。ここは、父親の物忘れも描いているのだが、そこで、場が悪そうになった父は、「顔のしみをとってくれ」と言い出す。そこで、娘は、「このじいさんが、何を考えてるんだ!」と思ってしまう。そう、「男の美容は無駄」という、世

「生きるとか死ぬとか父親とか(第二話)」人を弔うということ。遺品には記憶が刷り込まれているということ。

第二話のタイトルは「老いるとか  思い出とか 弔いとか」。松金よね子扮する叔母さんのお見舞いから始まって、彼女が亡くなってお葬式まで。 親族には、さまざまな記憶がある。一緒に暮らしている父母のことでも、そんな親族に聞くと、多くの知らない話が出てくる。私のように、父母が戦争の時代を知っている場合、多分ほぼほぼ両親はその時代のことを語らない。そう、ドラマを一緒に見ていて聞いたことはあるが、自分が目にした本当に苦しい風景は、その場で断捨離してしまっている場合が多い。それが戦争とい

「生きるとか死ぬとか父親とか」ドラマにできるエッセイを書けるジェーン・スーの凄み

このドラマの原作者、いや原作エッセイの作者、ジェーン・スー女史を私が知ったのは、彼女が最初のラジオのレギュラーを持った「TOP5」という番組だった。ラジオから流れる、興味深い話と、その語るリズムで、習慣的に聴くようになった。その後、このドラマにあるような「相談は踊る」という土曜の夜の番組、そして今も続くTBSラジオの昼帯番組「生活は踊る」に至るまで、聴き続けている。そう、ヘビーリスナーというやつである。そうさせるのは、彼女の引き出しの広さと、人間性を明確に感じさせる話かたから