見出し画像

「生きるとか死ぬとか父親とか(第4話)」銀座は、それぞれの記憶に残る時代の象徴?

今回は、トッキーさんが、「銀座百点」という雑誌に寄稿したことから、父の國村隼と吉田羊が、銀ブラをする話。なかなか面白かった。こんな、銀ブラ番組を作っても面白いだろう。商店街の活性化とかいうが、「銀座百点」の番組化は、今の時代には有効であろう。今は、なかなか「外に出て!」という時節ではないが、人に外に興味を向かわせるきっかけになればいいのだ。このドラマを見れば「銀座」だって、知ってるつもりが、もう違う街になっていたりもする。世の中はうつろいやすいからこそ、映像に残せる時代には、ちゃんと残すということも必要だと思う(もちろん、残さずに消えていくのも美学かもしれませんが…。)

話は、映画館の話から始まる。そう、昔は東京で映画を観るなら銀座だった。今のシネコンしか知らない世代にはわからないだろう。佇まい、高級感がそこにはあった。そう考えると、今の日比谷の映画街の空疎なこと。映画館は、ショッピングモールの一角の住人であり、映画街なるものが亡くなってしまったのは、本当に悲しい限りだ。せめて、シネコン中心のビルなど作って、「ここに来れば違う体験ができる」という場所を作って欲しかった。

そして、このドラマにあるように、「銀座」は外資系の店が多く、その中に、ユニクロなどが大きな店舗を持つ、昔とは違う街になった。もちろん、街の広さ、ゆったりと歩ける歩道など、他の町とは明らかに違うオーラを身に纏っているのだが…。

最初は、「銀座百点」そのものを探して歩く旅。その中で、知っていた店が無くなったり、移転していたり、何か、寂しさモード。そして、高級店の客を見て、自分の人生のあるようを考えたりする。私も、こないだ銀座を歩いていたが、こういう高級な人の姿は昔よりは減ったと思う。まあ、外人さんもいなくなって、その辺は昔の銀座に帰ってきた感じがあるが…。

でも、國村隼は、昔、銀座でならしてきたような雰囲気はある。それにより、この回は彼のおかげで締まった感じがする。そして、娘の書いた文章を対する訂正をするおやじ。回想に出てくる富田靖子が、確かに吉田羊の親に見えてくるし、ジェーン・スーの親にも見えてくる。なかなかの配役だ。

とにかく、私が知っている、まだ日劇があった頃の銀座は、輝く街だったし、文化の香りや最先端の美しさがあった。子供ながらに、その、ツンと尖っていた感じに惹かれていたのかもしれない。今回の話、街が変わっていくことを嘆く20代の相談から始まるが、本当に、そろそろ、経済的なことで街が壊れるようなことは止めてほしい気がする。未来になるにつれて街の有機性がなくなるのは我々が高度成長期に望んだことかもしれないが、誇りや汚れを落としたら、心の豊かさまでも削ぎ落としてしまったような気持ちになったというのが本音である。街はそこを楽しむみんなのものだ。

そういう意味で、なかなか、さまざまなことを想起させた銀ブラのエピソードだった。「時代とか 銀座とか 面影とか」そのままでした。

で、このドラマ、パンデミックの中で撮っていて、マスクは基本しない主義で撮られている。だから、後ろを歩くエキストラもマスクなしで歩かせていたりもする。ただ、ゲリラ撮影のような場面(道路使用許可は取っているであると思うが)では、後ろを歩く一般の人はマスク姿だ。(上の写真のように)そして、店頭の消毒薬や体温計も目立っていたりする。まあ、仕方のない妥協ですが、少し気になりました。(作り手のモヤモヤも分かります)

この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?