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「生きるとか死ぬとか父親とか(第6話)」時代があって、家族があって、父親がいる

親戚の子供の出産祝いの席。自分が生まれる前の父親の話を聞く。父親が気を遣わなかったおかげで、自分の姉か兄になるはずの命が流産に終わった話。ここで、それを話す人々は、その場にいて気まずい父親を責めるのではなく、時代のせいにする。確かに時代の生き方というのはある。國村隼が青春を過ごした時代は確かに父親がやりたい放題であり、母親が家を護るという時代だっただろう。私自身も思うが、今は、昭和の親父は生きられない時代になっている。その変化をこの目で観ている者からすれば、確かに時代というものがあって、生活があるように思える。

そういう意味では、過去があって、現在があり、振り返ることには、意味があって、意味がない。あくまでも、人は、今の価値観の中で最善の生きる方法を見出していかなければならない。

そう、冒頭で、お祝いの連絡の電話で、國村は吉田に「お前はインテリジェンスがない」という。「ものを知らないこと=インテリジェンスがない」というのは短絡的だが、トンチンカンさが面白かった。そう、インテリジェンスの所在も、時代とともに変わってきているような気がする。インターネットを検索すれば、なんでも教養が飛び出してくる時代である。人間個々人のインテリジェンスをどこで測るのか?まあ、そう考えれば、そんなの意味のないことだとわかる。

そして、親子でATMからお金を引き出しご祝儀用の新札を探す場面。かなり怪しい。そして、こうやって新札を探すという行為自体があることを驚く。このキャッシュレス時代、「ご祝儀」や「香典」はキャッシュレスにならないのだろうか?とふと思う。カードで払えるならそれでいいと私は思う。心のありかが、物質で表現できるわけもないしね。そして、集計も楽だし、香典泥棒もなくなるだろう。

今回は、この文章の冒頭で書いた話を聴いている國村隼の表情が実に痛々しくよかった。ちょっと先の時代を生きている自分が、過去の自分を責める感じを見頃に芝居として具現化している。この父親役は彼で本当に良かったと思う。

そして、最後に大家族と、小さな家族という話も出てくるが、それも神様の思し召しだろう。そう、無理矢理「少子化対策」とかやって、人は子作りに励むわけでもない。そして、家族は数がいれば幸せというものでもない。まさに「子供とか夫婦とか幸せとか」このタイトルで話を問えば、百人が百人、違うスタンスで話出すだろう。だから、生きているということは面白いわけだし、それなりの自分が面白く感じたりもするのだ。

確かに原作のエッセイを書いている、ジェーン・スー氏自体が、自分が思ってもみなかったことを文章に紡いでいる感じが、このドラマの魅力に繋がっている。

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