【続編】歴史をたどるー小国の宿命(31)

前回から3週間ほど間隔が空いたが、秀吉の時代の続きを再開しよう。

清州会議が、本能寺の変が起こってから約3週間後に開かれたことは、すでに述べたとおりである。

亡き信長の後継者として、秀吉提案によって三法師(=信長の孫)が会議の参加者に了承されて、信長の次男の信雄(のぶかつ)と、三男の信孝が後見人としての位置づけになった。

柴田勝家は、信孝を後継者として推していたが、しぶしぶ認めて、信長の妹のお市の方と結婚した。

徳川家康は、信長とともに甲州征伐を果たしたものの、信長の死によって、後北条氏が息を吹き返し、あわてて秀吉の命で、滝川一益と一緒に抵抗勢力を抑えにかかった。

そういうわけで、清州会議に参加することはできなかった。

さて、後北条氏の勢力には勝てなかった滝川一益が、敗戦後に戻ってくるわけだが、清州会議はとっくに終わっていた。

もともと、滝川一益は、甲州征伐で上野国(今の群馬県)を自分の領地にしていたのだが、後北条氏に敗れたことでそれを失い、改めて信長の遺領の再配分を求めるつもりだった。

ところが、清州会議がすでに終わっていたことと、ほぼ秀吉による決定となっていたことから、会議の参加者は、誰も再協議の姿勢は見せなかった。

そんな中で、柴田勝家が、秀吉との対立を深めていき、織田信孝や滝川一益は、勝家と手を組んで、秀吉と戦うことになった。

秀吉はまず、長浜城(今の滋賀県)を攻めて、勝家の養子である柴田勝豊を懐柔し、続いては、信孝が支配する美濃国にも攻め入った。

信孝が屈服したので、引き続いて、滝川一益の領地であった北伊勢にも攻め入った。このとき、本能寺の変から半年以上が経過し、正月を迎えていた。

滝川一益は、秀吉軍と対峙し、3月まで粘るのだが、そこへ柴田勝家が北近江で自軍を秀吉方に差し向けた。

そして、賤ヶ岳の戦いが始まったのである。

勝家は、この戦いの前に、室町幕府の将軍だった足利義昭に事情を説明し、義昭を庇護していた毛利輝元からの援軍を向かわせようとした。

だが、秀吉が先に毛利側に手を打っていたのか、輝元は応じなかったのである。

こうして、秀吉軍に攻め込まれた勝家は、お市の方と結婚して1年も経たないうちに、二人で自害することになった。

享年62才であった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?