【続編】歴史をたどるー小国の宿命(23)

1562年の信長と家康による清洲同盟の2年後に、室町幕府の第13代将軍である足利義輝の仲介もあって、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いも終戦となった。

その足利義輝には、信長や上杉謙信も、上洛して謁見していたことは、すでに以前の記事で触れている。

しかし、1565年に、その義輝が三好氏に殺害されたことは、他の戦国大名にとって衝撃だっただろう。

だが、もっとも身の危険を感じたのは、義輝の弟である足利義昭である。この義昭が、室町幕府の最後の将軍になる。

義輝殺害後に、三好氏は、第14代将軍に足利義栄を擁立したが、やっていることはクーデターであり、事実上の傀儡政権であった。

足利義昭は、この事態に直面してすぐに、家臣の協力も得ながら逃亡し、織田信長に救援を要請する。つまり、信長の上洛を依頼したのである。

1568年、約束どおりに信長は上洛を果たし、第14代将軍である義栄は、三好氏とともに阿波国に逃亡することになった。

その後は、約5年間、三好氏と信長の攻防が繰り広げられたが、最終的に室町幕府の滅亡とともに、三好氏は織田軍に屈したのである。

尾張国の信長にとって、1565年以降は、家康と手を結んでおり、今川氏の脅威もなく、地理上では上洛しやすかった。

もし信長が尾張国出身でなければ、歴史は変わっていたかもしれない。

さて、信長に助けてもらった足利義昭であるが、結果的に幕府が事実上の滅亡となったように、信長との関係は最後に悪化した。

実は、ひそかに義昭は、武田信玄の援助を期待していて、信長に対抗できると目論んでいたようだが、その信玄が1573年に病死したことで、進退窮まったのである。

また、京都に近いところでいえば、北陸地方の反・信長勢力からの援護も期待できたのだが、これもうまくいかなかった。

このとき、信長のそばには、柴田勝家や明智光秀、豊臣秀吉が味方についており、勢力図の塗り替えがまさに始まっていたのである。






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