20世紀の歴史と文学(1931年)
今日から2週連続で、1931年から1940年までの期間を一気に駆け抜けていくことにしよう。
ご存じのとおり、太平洋戦争が始まる前年まで、軍部の台頭によるさまざまな出来事がこの10年間に起こった。
そして、1901年にお生まれになった昭和天皇にとっては、まさにドンピシャの30代だったのである。
第二次世界大戦は、のちに昭和天皇の戦争責任について議論になったが、よく考えてみると、昭和天皇は戦争をほとんど知らずに育っている。
明治天皇は、幕末の戊辰戦争のとき16才、日清戦争で42才、日露戦争で52才だった。
大正天皇も、日清戦争では16才、日露戦争のときは26才だったのである。
昭和天皇は、日清戦争ではまだお生まれになっていないし、日露戦争ではわずか3才だった。
つまり、日本が戦争に突入する1930年代に、初めて軍部の行動を見聞きしたり、国家の命運を左右する判断(=勅命)を求められたりすることになったわけである。
そのあたりを、私たちは、あまり学校では教わっていないだろう。
昭和天皇が置かれていた状況と同じような経験を、もしかしたら私たちもこの先することになるかもしれない。
そのときに、私たちは潮目の変わり時を見逃してはならない。
だからこそ、本シリーズでは、これから終戦までのプロセスで何が戦争へと私たちを駆り立てたのか、じっくり見極めていただけるとありがたい。
さて、1931年は、満州事変が起こった年というのは、イヤでも頭に入っている人も多いだろう。
ただ、正確には、「柳条湖(りゅうじょうこ)事件」が起きたのであり、満州事変はこの柳条湖事件を含むその他のさまざまな事件を総称したものであり、柳条湖事件から5ヶ月後に満州全土を日本が占領したことから「満州事変」と呼ばれた。
では、柳条湖事件とは何かというと、9月18日に陸軍が南満州鉄道の柳条湖付近の線路2ヶ所を爆破したのである。
南満州鉄道は、当時は日本の管理下にあったのだが、被害を最小限度にとどめつつわざと爆破して、中国の張学良(ちょう・がくりょう)軍の仕業だと陸軍は発表したのである。
実際に、当時の新聞にも、このようなウソが書かれている。
ところで張学良というのは、張作霖(ちょう・さくりん)の子どもであり、1928年に、父親を日本軍に列車ごと爆破された。
これは、昭和天皇が即位の礼をする5ヶ月前に起こった出来事(=「張作霖爆殺事件」という)なのだが、この爆殺事件に関わった軍部の関係者の処分が軽すぎたことを後になって知った昭和天皇は、当時の内閣総理大臣だった田中義一を叱責したと言われている。
田中義一は軍人出身だったが、張作霖爆殺事件の首謀者は厳罰を与えるべきと主張していて、昭和天皇にも報告していた。
ところが、どういう経緯があったのか、最終的に陸軍の猛反発を受けて、昭和天皇に「爆殺事件と陸軍は無関係だ」と訂正したという。
それを天皇に詰問されて、田中義一内閣は、責任を取って総辞職したのだが、彼はほどなくして狭心症で亡くなった。
このとき田中義一は65才、昭和天皇は28才だったのだが、田中義一の死に責任を感じた昭和天皇は、以後、政治に口出しをあまりしなくなったと言われている。
軍人出身の総理大臣さえ、軍部の暴走をすでに止められなかったことがお分かりだろう。
続きは明日である。