【続編】歴史をたどるー小国の宿命(20)

織田氏が、斯波氏の守護代を務め、斯波氏の留守中に力をつけて、斯波氏の権威が失墜したことは、すでに触れたとおりである。

だからといって、織田信長が、第13代将軍の足利義輝の命を脅かすような存在となったわけではない。

ところが、意外にも、義輝の敵は、身近なところにいたのである。

かつて、恐怖政治を行った第6代将軍の足利義教は、守護大名の赤松満祐に暗殺されたのを覚えている方もいるだろう。

義輝の場合は、守護代に命を狙われたのである。

では、それは誰だったのか。

管領の細川氏の守護代を務めていた三好氏である。

今の徳島県に、三好市があるのを知っている方もいるかと思うが、三好氏は阿波国の守護代だったのである。

細川氏は、阿波国の守護のほかに、讃岐国(香川県)、土佐国(高知県)、丹波国、摂津国、淡路国(今の京都・大阪・兵庫の一部)の守護も務めていた。

第12代将軍の足利義晴が生きていた時代に、三好氏は、細川氏の領地がある摂津国や淡路国に侵攻し、敗れて阿波国に戻ることがあっても、自分の支配地を徐々に拡大していった。

足利義輝が将軍に就任したときは、三好長慶(みよし・ながよし)が権力を握っており、大和国、山城国、和泉国、河内国、播磨国、伊予国の一部も支配していた。義輝は、近江に逃亡しながらも、長慶との和睦を図り、最終的には、三好氏からの条件として「細川氏綱(うじつな)を管領にすること」を認めたのである。これが、1558年のことだった。

この翌年に、織田信長や上杉謙信が、義輝に謁見しに上洛したということを、昨日の記事で触れている。

1564年に川中島の戦いが終結し、偶然にも、三好長慶も43才の若さで早逝した。足利義輝は、三好長慶と上手に付き合っていたが、当の本人が死去したことで、幕政を立て直すチャンスと捉えた。

そして、川中島の戦いの調停を図ったことで関係を深めた武田信玄や上杉謙信に、協力を呼びかけたのである。

しかし、これは三好氏一族からみれば、大変な脅威であったことは、想像に難くないだろう。

1565年6月、今の京都市上京区にあたる二条御所に乗り込んで、三好氏はクーデターを起こし、義輝を殺害した。

第13代将軍を殺され、このあと、室町幕府はどうなったのか、そのとき、織田信長はどうしていたのか。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元は戦死しており、川中島の戦いも終わっている。

戦国動乱は、クライマックスを迎えるのである。








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