古典100選(56)太平記

今日は、NHKの大河ドラマでも放映された『太平記』である。1370年頃の成立で、作者は不明だが、軍記物語としては楠木正成の活躍が描かれるなど、非常に有名な作品である。

大河ドラマでは、1991年(=平成3年)に、真田広之が主演で登場した。

その『太平記』に、鎌倉幕府の始まりから衰退までの経緯が簡単に述べられている部分がある。

では、原文を読んでみよう。和漢混交文のために、一部書き下し文になっていないところもあるが、漢字だけでも意味は掴めると思う。

①元暦(げんりゃく)年中に鎌倉の右大将頼朝の卿、追討平家而有其功之時、後白河の院叡感の余りに、被補六十六箇国の総追補使。
②これに従ひ武家始めて諸国に守護を立て、庄園に地頭を置く。
③かの頼朝の長男左衛門督(さえもんのかみ)頼家、次男右大臣実朝公、相次いで皆征夷将軍の武将に備はる。
④これを三代将軍と号す。
⑤しかるを頼家の卿は実朝に討たれ、実朝は頼家の子悪禅師公暁(くぎょう)に討たれて、父子三代僅(わず)かに四十二年にして尽きぬ。
⑥その後頼朝卿の舅(しゅうと)、遠江の守(かみ)平時政の子息、前(さき)の陸奥の守義時、自然に執天下権柄勢ようやく欲覆四海。
⑦この時の太政天皇は、後鳥羽の院なり。
⑧武威振下、朝憲(ちょうけん)廃上事歎き思し召して、義時を亡ぼさんとし給ひしに、承久の乱出で来たつて、天下しばらくも静かならず。
⑨遂に旌旗(せいき)日に掠(かす)めて、宇治・勢多にして相戦ふ。
⑩その戦ひ未終一日、官軍たちまちに敗北せしかば、後鳥羽の院は隠岐の国へ遷されさせ給ひて、義時いよいよ八荒(はっこう)を掌(たなごころ)に握る。
⑪それより後武蔵の守(かみ)泰時・修理の亮(すけ)時氏(ときうじ)・武蔵の守経時・相摸の守時頼・左馬権頭(さまごんのかみ)時宗・相摸の守貞時、相次いで七代、政(まつりごと)武家より出で、徳窮民を撫(ぶ)するに足れり、威万人の上に被(こうむ)るといへども、位(くらい)四品(しほん)の間を越へず、謙(けん)に居て仁恩(じんおん)を施し、己を責めて礼義を正す。
⑫ここを以つて高しと言へども危からず、満てりと言へども溢れず。
⑬承久よりこの方、儲王摂家(ちょおうせっけ)の間に、理世安民(りせいあんみん)の器(き)に相当たり給へる貴族を一人、鎌倉へ申し下し奉つて、征夷将軍と仰いで、武臣皆拝趨(はいすう)の礼を事とす。
⑭同じき三年に、始めて洛中に両人の一族を据ゑて、両六波羅と号して、西国(さいこく)の沙汰を執り行はせ、京都の警衛に備へらる。
⑮また永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司らしめ、異賊襲来の守りを固うす。
⑯されば一天下、あまねくかの下知(げじ)に不随と言ふ所もなく、四海の外(ほか)も、等しくその権勢に服せずと言ふ者はなかりけり。
⑰朝陽(ちょうよう)不犯ども、残星(ざんせい)光を奪はる、習ひなれば、必ずしも、武家より公家をないがしろにし奉るとしもはなけれども、所には地頭強うして、領家(りょうけ)は弱く、国には守護重うして、国司は軽し。
⑱この故に朝廷は年々に衰へ、武家は日々に盛んなり。
⑲これによりて代々の聖主、遠くは承久の宸襟(しんきん)を安めんがため、近くは朝議の陵廃を歎き思し召して、東夷を亡ぼさばやと、常に叡慮を廻されしかども、あるひは勢ひ微にして叶はず、あるひは時いまだ到らずして、黙止し給ひけるところに、時政九代(くだい)の後胤(こういん)、前(さき)の相摸の守平高時入道崇鑒(そうかん)が代(よ)に至つて、天地命を改むべき危機ここに顕(あらは)れたり。

以上である。

最後の文に出てくる「相摸の守平高時入道崇鑒」は、第14代執権の北条高時である。

大河ドラマでは、若き片岡鶴太郎が演じていたが、この『太平記』では、北条高時は悪政の当事者として批判的に描かれている。

『増鏡』『梅松論』『太平記』の3点の古典作品は、鎌倉時代から南北朝時代までの武士の世が、朝廷との関わりの中でどのように描かれているか比較してみるとおもしろい。


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