歴史をたどるー小国の宿命(97)

昨日は、南北朝合一が実現した足利義満の時代までの、楠木正儀の貢献についてさらっと触れた。

話を、足利尊氏が直義追討で留守にしていたときに戻そう。

直義が尊氏に毒殺されたのではないかということは、第95回ですでに触れたとおりである。

さて、京都に戻ってきた尊氏は、後村上天皇や楠木正儀らに対して、どうしただろうか。

息子の義詮から救援要請を受けて、一旦は京都を取り返したものの、また奪還され、また取り返しの繰り返しだった。

それだけお互いの戦力が拮抗していたということだろう。

そうこうするうちに、尊氏自身も死期が迫り、1358年に亡くなった。53才であった。

尊氏の遺志を継いで、義詮も第2代将軍として、南朝と北朝の戦いに決着をつけようとしたが、九州をはじめ有力武士の台頭によって、押したり引いたりの戦いが続いたのである。

その義詮も、1367年に38才の若さで病に倒れて亡くなってしまう。

1368年、義詮の跡を継いで、3代将軍に息子の義満が11才の若さで就任する。尊氏の孫にあたる。

昨日も触れたが、南朝では後村上天皇が死没したことにより、第98代の天皇として、長慶(ちょうけい)天皇が即位した。

実は、長慶天皇は後村上天皇の第一皇子なのだが、この天皇の在位が正式に認められたのは、大正15年(1926年)のことである。

明治の終わりに、南朝の後醍醐天皇が属した大覚寺統が正統の系譜として認定され、大正の終わりには、後醍醐天皇の孫にあたる長慶天皇の在位が正式に認められたのである。

この頃の天皇の系譜が実証的に認定されたのは、ほんの100年前のことだった。





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