歴史をたどる-小国の宿命(32)

藤原忠平が天皇に仕えた年数は、延べ35年であり、これは彼の人生のちょうど半分にあたる。

一昔前で言えば、大卒の社会人が60才定年までずっと同じ会社で働く期間に相当するわけである。

彼の存在なくして、藤原氏がのちに道長に代表されるような摂関政治の隆盛を極めることはできなかっただろう。

その藤原道長は、忠平の死後17年経って、ようやくこの世に生まれる。

しかし、第62代の村上天皇のときに、大臣の顔ぶれを見ると、忠平がいかに実力者であったかがよく分かる。

このシリーズのバックナンバーを読んでいただけると分かるが、天皇の側近でナンバーワンが太政大臣(関白)、ナンバーツーが左大臣、ナンバースリーが右大臣である。

忠平が関白の地位にあったとき、左大臣は忠平の長男である藤原実頼(さねより)、右大臣は忠平の次男である藤原師輔(もろすけ)が務めた。

この藤原師輔の孫が、道長なのである。

ついでに言えば、藤原師輔の娘は、藤原安子(あんし)であるが、村上天皇の后になって子どもを産んだ。

その子どもが、第63代の冷泉(れいぜい)天皇と第64代の円融(えんゆう)天皇であり、円融天皇は冷泉天皇の弟である。

これだけ忠平の長男・次男が側近の座を占め、娘が天皇に嫁ぎ、産ませた子どもを2人続けて即位させるのだから、盤石の体制といってよいだろう。

まさか、自分の曾孫(=道長)までが栄華を極める存在になろうとは、さすがの忠平も予想していなかったのではないだろうか。

ちなみに、冷泉天皇は、『源氏物語』に登場する冷泉帝とは別人であり、物語に登場するのは架空の人物であることに注意されたい。





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