現代版・徒然草【82】(第82段・本の表紙)

本の表紙といえば、書店や図書館で本を手に取ったとき、そのイラストやデザイン、魅力的なタイトル文字のフォントに惹きつけられ、読んでみたいという意欲をかき立てることがある。

真新しい表紙であれば、なおさら手に取りたくなる。

だが、少しでも端が破れたり、皮脂で汚れたり、日焼け箇所が目立ったりすると、私たちは敬遠するときがある。

本の内容自体に価値は認めても、やはり装丁はきれいな方がいいと思うのは、いつの時代も同じである。

では、原文を読んでみよう。

①「羅(うすもの)の表紙は、疾(と)く損ずるがわびしき」と人の言ひしに、頓阿(とんあ)が、「羅は上下(かみしも)はづれ、螺鈿(らでん)の軸は貝落ちて後こそ、いみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりして覚えしか。

②一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしと言へど、弘融僧都(こうゆうそうづ)が、「物を必ず一具(いちぐ)に調(ととの)へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。

③ 「すべて、何も皆、事のとゝのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏(だいり)造らるゝにも、必ず、作り果はてぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。

④先賢の作れる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。

以上である。

①や②で登場する頓阿や弘融僧都は、兼好法師が親しくしていた坊さんの名前である。

ある人が、本の表紙が傷んだことを気にすると、頓阿という坊さんは、「むしろ表紙の布の生地が使用感がある方がよいし、(巻物の軸にしている)貝も、何度も開いたり丸めたりすることで(ゆるくなって)落ちているのも趣があって良い。」と言ったそうで、兼好法師が感心したのである。

また、シリーズものの草子(=物語など)の表紙が、巻ごとに異なっているのは見栄えが良くないとある人が言えば、弘融僧都という坊さんは、「同じような表紙に揃えるのはつまらない。違っているものがあるから良いのだ。」と言ったそうである。

③や④の文で例示しているように、内裏を建設するのもそうだが、なんでも完成させてしまっては面白みがない。やり残したところがあったほうが、その物を長持ちさせることにつながる。

先人が書き残した書物をみても、章段が欠けているものがある。

と、最後は締めくくっているが、いやいや火事で消失したかもしれないし、そうとは言い切れないでしょ〜、と私はツッコんでみた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?