【続編】歴史をたどるー小国の宿命(2)

義満が、中国の明の皇帝に「貿易をしたい」旨を伝えるために使者を送ったのは、1401年のことであり、すでに将軍職を退いた状態だった。

明からは快い返事があったわけだが、長男の義持は、父親の姿を見て嫌気が差していたのだろう。

明との貿易は、「朝貢」という形であり、義満は遠い昔の倭国王が、中国から金印を授受されて「国王」として認めてもらったように、自分自身も「国王」の称号が欲しかったのである。

本来であれば、天皇が中国の皇帝と対等に国交を樹立すべきはずである。

ところが、1392年に、バラバラだった南北朝合一を果たした立役者は、朝廷よりも権力を持ちすぎたのである。

義満の死後、義持が中国との国交を断絶したが、それによって中国との関係が悪化することはなかった。

しかし、6代将軍の足利義教(よしのり)のときに、日明貿易は復活するのである。

義教は、義持の同母弟であるが、かつての義満の政策に倣うことが多かった。

この義教は、「くじ引き将軍」とも呼ばれており、本人の意に反して、文字通りくじ引きで将軍が決まったのである。

このあたりが、義持の将軍就任から、室町時代のおもしろいところである。

義持は、義満と28才の年の差であり、今の時代の平均的な親子の年の差と同じであった。

義満が亡くなったとき、義持は22才であり、今で言えば、立派な社会人である。

父親を反面教師にして、政治を動かしていった義持であるが、我が子である義量(よしかず)に第5代将軍の座を1423年に譲ったものの、2年後に先立たれてしまう。

このとき、義教は僧侶であり、亡くなった義量の後継者はまったく決まっていなかったのである。



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