現代版・徒然草【90】(第202段・神無月)

10月もあっという間に下旬である。

明治6年(1873年)に西洋のグレゴリオ暦(=太陽暦)が採用されてから、それまでの旧暦(=太陽太陰暦)は廃止されたが、旧暦の和風月名を知っているひともいるだろう。

10月は神無月だということは、兼好法師が生きていた鎌倉時代後期(1300年代前半)でも知られていたようだ。

では、原文を読んでみよう。

①十月を神無月と言ひて、神事に憚かるべきよしは、記したる物なし。
②本文(もとふみ)も見えず。
③但し、当月、諸社の祭りなき故に、この名あるか。 
④この月、万(よろづ)の神達、太神宮(だいじんぐう)に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし。
⑤さる事ならば、伊勢には殊に祭月(さいげつ)とすべきに、その例もなし。
⑥十月、諸社の行幸、その例も多し。
⑦但し、多くは不吉の例なり。

以上である。

久しぶりに短めの文章で読みやすいだろう。

①②の文では、10月が神無月(=神様がいない月)だから、神事を慎むべきだとする書物はないと言っている。根拠が書かれている書物もないとのことである。

③では、この月が、各地の神社で祭りをしないからこの「神無月」という名前なのかと言っている。

④では、この10月に、すべての神様たちが伊勢神宮(=太神宮)に集まるのだという説もあるが、確かな説ではないとのことである。

⑤では、そういうことであれば、伊勢神宮にとっては特別に祭りを行う月になるだろうに、その例はないと言っている。

最後に、⑥⑦の文では、こう締めくくっている。10月は、天皇による諸神社への行幸の例も多い。但し、その多くは不吉な例であると言っている。

ちなみに、兼好法師よりも300年前に生きていた紫式部が書いた源氏物語にも、『紅葉賀』の篇で「神無月」の記述があり、天皇が行幸している。

「朱雀院の行幸は神無月の十日あまりなり。」

神無月が紅葉の季節と重なっているのは確かなようだが、兼好法師が文中で触れている「万の神達、太神宮に集り給ふ」というのは、伊勢神宮ではなく出雲大社の間違いではないのかと研究者の間では指摘されている。

また、「神様がいない月」ではなく、「神の月」(=古代では「の」が「な」だったというのが定説)だとする説もある。

そうでないと、この時期に五穀豊穣の祭りが行われることの説明がつかない。

梅雨の季節と重なる6月の「水無月」も、「水がない月」なのかということになってしまう。

ともかく、紫式部が生きた時代から「神無月」という言葉が1000年以上も使われているのは、とても感慨深いことである。




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