現代版・徒然草【11】(第143段・死)

今日は、「人生の終わり(終焉)」(=死)がテーマである。

死は、誰もが直面することであるが、人の死についてどう対応するかということについて、兼好法師は自分の考えを述べている。

では、少し難しいが、原文をみてみよう。「心にくい」というのは、憎らしいということではなく、「品位が感じられる」という肯定的な意味である。

人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく、異なる相(そう)を語りつけ、言ひし言葉も振舞も、己(おのれ)が好む方に誉めなすこそ、その人の日来(ひごろ)の本意にもあらずやと覚ゆれ。 この大事は、権化(ごんげ)の人も定むべからず。博学の士も測るべからず。己れ違ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。

冒頭は、「人様の最期の立派だったことを、他の人が語っているのを聞いた際に」という書き出しで始まっている。

続いて、(それを語る人が)「ただ最後は静かに息を引き取って、取り乱すことがなかった」と言えば、まだ品位が感じられてよいのに、愚かな人がいるものだと言っている。

どういったところが愚かなのか?

変に脚色してそのときの様子を語っていて、(亡くなった本人が)息を引き取る直前に言ったことばや動作について、(その語る人が)都合のよいように褒めなしている。

兼好法師は、そういった点について、亡くなった本人の思いとは違うのではないかと思うと述べている。

そして、最後の3文では、畳みかけるように、こう述べている。

「死」という一大事については、権化の人(神や仏)でさえ決められないものである。博学で優秀な人でも、分からない。(亡くなった)その人が思うままに息を引き取ったのであれば、それを見聞きした人がとやかく言うことではない。

なるほど、深い言葉である。

人様に知られずに、そっと亡くなりたいという人もいるだろう。自分が死んだあとで、自分が望まない人に、自分の生前のことについてあれやこれや言われるのは、いくらこの世にいない身であったとしても、イヤなものである。

悔いのない人生のしまい方をしたいものだ。



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