【続編】歴史をたどるー小国の宿命(18)

武田氏は、もともと甲斐国(今の山梨県)の守護だった。関東管領を務めていた上杉氏によって、一時は没落したのだが、信玄の父親だった信虎(のぶとら)の時代に、再び国づくりが進められた。

信玄が生まれる5年前の1516年、信虎は駿河国の守護である今川氏親(うじちか)に攻め込まれる。今川義元の父親である。

ただ、今川氏も自国周辺の防衛を気にしなければならず、翌年には信虎と和睦した。

和睦後、信虎は、今の甲府市にあたるところに城下町をつくり、今川氏に味方している周辺の氏族を駿河国に追放した。

信玄が生まれたのは、そんなときである。

のちに信玄が元服してからは、甲斐国の隣国である信濃国(今の長野県)に侵攻し、領土を拡大していくことになり、それが上杉謙信との川中島の戦いにつながっていく。

ところで、信玄が元服したのは1536年であり、15才であった。このとき、幼名の太郎から、「晴信」(はるのぶ)に改名したのである。

「晴信」の「信」は、父親の信虎からもらったものだが、「晴」は誰からもらったか分かるだろうか。

先週の記事で登場した、室町幕府の第12代将軍であった足利義晴である。これは、父親の信虎が依頼した。

だが、この5年後に、信玄は、信虎を駿河国に追放してしまい、甲斐国に戻ることを拒絶するのである。この理由は定かではないが、信虎と家臣の関係悪化や、今川氏との共謀が考えられる。

その後は、信虎は長生きし、信玄が51才で亡くなった翌年に、81才で亡くなった。今川氏の領土に身を置いても、命を狙われることもなく、むしろ厚遇されていた。

そして、京都にも赴き、邸を与えられ、公家とも交流し、将軍にも仕えていた。

対する信玄は、信濃国への侵攻や上杉謙信との戦いに臨むわけだが、親子でこんなに活動が分かれるのも珍しいことである。

1552年、信玄が31才のとき、織田信長は18才、豊臣秀吉は15才、徳川家康は9才であった。

このとき、上杉謙信は22才であり、信濃国の中で、あの川中島の戦いが始まったのである。





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