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「〜したい」と「〜できるようになりたい」の違い

色んなアーティストの、イラストメイキングだとかエッセイだとかを見たり読んだりした時、こう思う事はないだろうか。

「私もこんな風に描けるようになりたい!」
「自分もこんな文章を書きたい!」

そこには相手への憧れや羨ましさがあったり、相手の持つ表現力が自分にもあったら、と願う心があったりするんだよね。

私にもある。
絵の具で綺麗なグラデーションを作って、その上から黒い絵の具で森やら街並みやらを描き足して最後は白で星をちょんちょんちょんと描く。最近インスタに流れてくる海外アーティストのそういう動画を見てると「あ〜楽しそう、こんな風にすらすら描けたら楽しいだろうなぁ私もこんな風に描いてみたい」って思ったりね。
だけど、その願望ほど強く実際にそれを「描きたい!」とは思わない。

そこで初めて「描きたい」と「描けるようになりたい」という二つの感情が居ることに気付いた。

そして本当になんとな〜くだけど、

〝なんかよく考えたら、このふたつって別物の欲望だよな?〟

と思ったから、それを分析してみたら色々分かったよ。っていうだけの記事です。

もし何か、私と同じようにこのふたつへの違和感を感じていたりしたら、ちょっと読んでもらって損は無いと思う。

一応、説明しやすいように最初に出した「描きたい」「描けるようになりたい」を例に考えたことをつらつら書いた。

①「描きたい」は本能寄りの欲望、「描けるようになりたい」は理性寄りの欲望。

「〜したい」っていうのは衝動が強い印象。対して「〜できるようになりたい」っていうのはかなり色んな、自分にとっての打算やそれができるようになった自分に対する賞賛を求める気持ちだったり、とにかく頭で欲するものが強い気がする。

「〜できる」っていう表現がそもそも、できる、の前に「(上手く)」が暗黙の枕詞になっていると思ってる。他者からのアクションありきというか、そこにあるのは「描けるようになって、今自分がこの人をすごいと思っているように、自分も他者からすごいと思われたい」だったりするんでは。

もはや描くという行動はすっ飛ばして、
「自分も注目を集める存在になりたい!」
「なにか秀でた事がある人間になりたい!」
みたいな。

なにかひとつの分野に対して「そんなふうに(そこまで)できたら楽しそうだよね〜」と思う人は、他の分野のスペシャリストを見ても似たようなことを思う傾向がある気がする。ていうか自分が実際そう。

②「描きたい」は今の自分、「描けるようになりたい」は未来の自分に幸せを託している。

「したい」っていうのは、例えば絵を描くことなら、その行動自体が自分に幸せをもたらしいている状態だと思う。(私は世の中の絵描きや志望者ほど絵を描いていないから、あまり厳密な気持ちの内訳は分からないけど)

できるようになりたいっていうのは、未来に視座がある。それができるようになった時の自分ばかりを想像していて、今の自分とは違う自分がそこに居る。つまりそれは、

今の自分に足りないものを欲する感情。

それができるようになったら、今より楽しそう。とか、少なくとも今よりは良い状況になることを期待して生まれる欲望。

未来の自分に幸せを託してる状況。

言い換えれば、そこまで行けなきゃ(できるようにならなきゃ)幸せを感じられないと思っている状況。

結果に幸せを求めている状態だ。

あの人みたいに、あんな風に思い通りに描きたいという欲望が勝っていると「上手く描けない!楽しくない!」に陥りやすくなると思った。

反対にそもそも描くこと自体が欲望そのもので、描きたい欲が全てに先立っていたら他者から何と言われようと誰の絵を見ようと、全て自分の「描きたい」という欲望を育てる餌にしかならないようなな気がする。技術の習得は「描く」の種類を増やすというか、色んなパターンの「描く」(=楽しい)が増えることでしかないという思考になりそう。


そう考えると、

「〜したい」
ではなく
「〜できるようになりたい」

という欲が出てきた時は、純粋な欲望ではない可能性が高い。たぶんそこには、
「できるようになって褒められたい/すごいと思われたい/自慢したい/羨ましがられたい」
みたいな類の、他者ありきな承認欲があるのだ。
だから、その承認欲が満たせるのなら手段は何でもいいということでもあると思った。

これの何が私は怖いかって、延々と自分を認めてもらえる場所を求めてさまよい続けることになる可能性があるということだ。自分を褒めてくれる人に依存してしまうと、悪意ある他者にその気持ちを利用されて金づるにされたり、なんてこともあるかもしれないし。(誇大妄想)

こんな事をつらつら考えた末、ひとつ出てきた結論としては、なにか迷った時には

「それをしたいの?
それともそれが「できるようになりたい」の?」

と問いかけるようにすると、今やろうとしている事やチャレンジしたい!と思っている事が本物の欲望かどうか判断できるかも、ってことだった。

ただ、「〜したい」と思った中にも
「これができたら役に立ちそうだから」
「この職に就いて周りを思い切り見返したいから」とかそういう理性が損得を判断して頭で欲してる欲望が混じってたりするから一概に言えないけど。

承認欲が人を成長させることもあると思うから、「〜できるようになりたい」が悪い考え方だとは思わないけど、このふたつをはき違えたまま
「私は絵が描きたいんだ!」と思いこんで実は何でもいいから認められたいだけでした、とかなると割と悲惨な結末を産むんでは…と思ったりもする。

だから「したい」と「できるようになりたい」って似て非なるものなんだ、という認識ができていればちょっとは日の目を見ずに済む悲劇があったりするのかな、なんて思いながらこれを書いた。

もちろん人それぞれこのふたつに対する考え方は違って然りだと思う。それに私もきちんとまとめて書けている自信は無いから、私の話を鵜呑みにせず興味があれば自分でも考え直してみてほしいなと思う。

少なくとも私は、なるべく本能に沿った選択がしたいと思い続けている。言葉にせずとも体感で好き。楽しいと思えることを選び続けたいと思うようになった。

したいこと、できること、好きなこと、全部違ってたくさん惑わされて迷子になる日々だけど、今日はこんな事を考えていたら少しだけ明かりが灯って、何か見えるものがありそうだ。

ここまで読んでくれたあなたにも、何かヒントや光になることがありますように。

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