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小説『樹洞より』

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人間は皆、巨樹のうろから生まれる世界。母なる木を愛する純真な少年・澪は、己が胸に棲まう幻を恐れ、ふるさとの島を旅立つ――人のさがに息づく、暗く暖かな深淵を知った者たちの群像劇。不… もっと読む
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『樹洞より』 1・船の足跡

『樹洞より』 1・船の足跡

澪 澪は生まれ育った島を出る。洋品売りの商家のもとへ、丁稚奉公へ行くのだ。

 巻砂という名の島の南西部、険しい山岳と磯からの風が通う盆地に、澪の住む集落はあった。斜面や崖の多い土地の、最も平坦な部分には田が造られ、荒れた土に初春の小さな芽吹きを許している。それ以外の細かな土地には、蕪や菜種、籾殻を被った甘薯の畑がひしめき、ところどころに藁葺きの小屋が点在している。
 それらの田園の中に、瓦屋根の

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『樹洞より』 2・木陰

『樹洞より』 2・木陰

桔梗 少年は、目の前で起こりゆくことを理解できなかった。
 学舎の瓦がところどころ燃えていて、その炎は白かった。白い炎からは栗鼠の尻尾が飛び出して、途中で櫛に変わり、櫛歯の一本ずつをぱちぱちと弾けさせながら、宙に石楠花を咲かせた。それらは全て、漆喰を被ったように白かった。
 やがて、純白の石楠花のひとつが、少年の目の前にぱちりと音を立てて咲いた。少年はぼうっとした目でそれを見て、手を伸ばす。
「ギ

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『樹洞より』3・帳の浦

『樹洞より』3・帳の浦

桧扇貝 彼は水面に道を描く。
 その身は水の畝、その声は千々のあぶく。腕のひと振りが水面をさらい、歌のひと声がしぶきを撫でる。彼の通るあとは、細波の足跡が続く。
 彼は水の原を行く。彼はいつからここにあるのか知れない、けれど行く宛には迷わない。目先には舟があり、その艫を追って彼は行く。
 彼は舟の尾となって、少しも絶やさず道を描く。彼の足跡を見た者は、そこに道のあることを知る。そうして彼に続こうと

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『樹洞より』4・べにの間

『樹洞より』4・べにの間

春の胸 春の始まりの暖かさは、きっと世界のどこであっても、胸に心地良いものなのでしょう。
 遠ヶ崎の街で迎える春は、山深い巻砂のものと比べれば、幾分か知ることの難しいものです。目白の集う桜の木も、花の房をたわわに下げた小米柳も、巻砂ではありふれていたものでした。しかしこの街では、よそのお店の庭を覗いて、やっと見ることのできるものたちです。
 それでも、道行く人々の表情が和らいでいること、お日様が早

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『樹洞より』5・別れ銀杏

『樹洞より』5・別れ銀杏

とわの瞳 初めて澪に呼ばれた日のことは、この身がどんな姿になっても覚えているだろう。

 その日、木霊のやつらがひどく騒いでいたから、俺は昼寝を諦めた。無遠慮な木こりでも来たのかと思って声のする方へ向かえば、やつらがひとところに集まって、うじゃうじゃと雲の体を蠢かせていた。その白色の中に、澪がいた。
 吊った目つきの、瞳の色は銀杏だった。秋の終わり、銀杏の葉はあんな黄色に向かっていって、辿り着いた

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