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『樹洞より』5・別れ銀杏

とわの瞳

 初めて澪に呼ばれた日のことは、この身がどんな姿になっても覚えているだろう。

 その日、木霊のやつらがひどく騒いでいたから、俺は昼寝を諦めた。無遠慮な木こりでも来たのかと思って声のする方へ向かえば、やつらがひとところに集まって、うじゃうじゃと雲の体をうごめかせていた。その白色の中に、澪がいた。
 吊った目つきの、瞳の色は銀杏いちょうだった。秋の終わり、銀杏の葉はあんな黄色に向かっていって、辿り着いたものから地べたに落ち、重なり、ついえる。その時の黄色を、ずっと閉じ込めたみたいな目玉だった。
「あ、あの、お兄さんは、木霊が見えるんですね! えっと……ウイちゃん、っていうんですか?」
 澪は浮ついた仕草で道を降りてきた。近くで見てみれば、俺より六つは年下だろうと思えた。顔は白粉もないのに滑らかで、声はなんだか頼りなかった。背ばかり大人みたいに高くて、俺は坂道の下から、そいつの顔を余計に見上げる羽目になった。
「それは、こいつらのつけたあだ名だ」
 寄ってきた木霊を手で払うと、何やら高い声で騒ぎながら飛んでいった。澪は少し面食らったようで、すっ飛んでいく木霊を見て慌てていた。
「心配すんな。どうせまた戻ってくる」
「えっ! は、はい……」
 澪はやっぱり浮ついた仕草で、俺の目を見てきた。何から話したものかと考えていると、澪は思わぬ言葉を投げかけた。
「お兄さん、もしかして……木霊が見えるということは、木守でいらっしゃるのですか?」
「はあ?」
 驚きのあまり、俺は怒ったような声を出してしまった。
「違うのですね、ごめんなさい!」
「いや、すまんすまん」
 肩を竦めて謝る澪に、俺は慌てて笑いかけた。
「しかしまあ、お前さん……俺のこの格好を見て、よく木守だなんて思えたなあ」
 澪は、俺が笑いながら話していることの意味を、少しも分からないようだった。ぽかんと口を開けて、俺の格好を見直していた。
 洋柄の刺繍靴に、肌を透かす薄衣うすぎぬの着物、羽織。開けた首下には、蝶結びした白い帯。その格好はどう見たって、木守とは正反対の身分﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のものだった。
「お洒落な木守さんかと思いました! 違うのですか?」
 澪は子供みたいに目を輝かせて、そう言った。いや、実際にあの時の彼は、まだ子供だったのだ。
「……お前さん、ちょっと話さないか? 向こうに気に入りの場所があるんだ」
 俺が道を戻っていくと、澪は元気な返事をして、後ろについてきた。歩いていると、散っていた木霊たちがまた集まってきて、ぺちゃくちゃと俺達のことを喋る。
(ウイチャン アノネー)
(コノ人ハネ オメメサンッテ イウノ!)
(オメメサン アノネー)
(コノ怖イ人ハネ ウイチャンッテ イウノ!)
「おい木霊、『怖い』は余計だぞ。……で、お前さんはなんだ、変わったあだ名をつけられてるんだな。お目々さん、って言われてるのか?」
 俺が振り向きざまに問うと、澪は照れた顔を俯かせ、答えた。
「はい、そうなんです。なんだかよくわからないんですけど、木霊の皆さんは、その……私の瞳の色が、好きらしいのです」
 はにかんでいる澪の瞳は、木陰の下でも輝いて見えた。
 そこで俺は初めて、彼の瞳に抱く心を自覚したのかもしれない。けれど、その時の胸に現れたものを捉え直す間もなく、澪は俺のことをあの名で呼んだ。
「ウイちゃんは、どうしてウイちゃんなんですか?」
「……俺は、羽衣ハゴロモって名前なんだ。すまんがお前さん、俺の事は羽衣と呼んでくれないか」
「は、はい! 羽衣さん、ですね」
 俺の言葉に厳しいものが混じるのを、澪はすかさず感じ取ったらしかった。しばらくの間、俺たちは林道を行きながら、沈黙していた。
 しかしその沈黙は、澪の妙に楽しそうな声で吹き飛ぶことになった。
「あ、分りました! 羽衣さんは、木守ではなくて、羽衣という芸名のお役者さんなのですね!」
「ええ?」
 再び予想だにしない予想を立てられて、俺はすっかり困ってしまった。このどうしようもなく健気な子供に、浮世の理というものを教えねばならないと考えると、気が重くなってしまったのだ。
 これから話すことが増えたものだ、と考えていたとき、俺達の前に荒屋あばらやが現れた。
「ここが、俺の家……ってほどじゃあないが、時々寝泊まりに使ってんだ。いいとこだろ」
「わあ、すごい……!」
 澪は年季の入った小屋を見て、そしてその隣に聳える巨樹――枝からつららのような根を垂れ下がらせた、銀杏の老木――を見上げ、目を輝かせた。
「こんなに大きな銀杏の木と、その側のお家……なんだか、木守のお家みたいです!」
 澪は銀杏の下に駆けて行って、垂れた根にそっと触った。幹に大穴も無ければ、注連縄も巻かれていないけれど、ひと村の母樹と呼ばれてもおかしくない気迫を持つ、そんな銀杏の大木だった。
「この木はな、『別れ銀杏』っていうんだよ。少し、昔話でも聞いてくか?」
 小屋の戸を開け放ち、入り口に腰掛けて、澪に声をかけた。澪はぱっと振り向くと、かむろの髪を翻しながら駆けてきた。
「はい、ぜひ! 何かの言い伝えがあるんですね?」
 澪を隣に座らせて、俺は別れ銀杏の話を語り始めた。


御伽噺

 むかしむかし、遠ヶ崎の街に、一人の青年が居りました。
 青年は、他の遠ヶ崎の人々と同じように、よその村から働きにやってきた若者でした。しかしその青年は罪人で、村を追われた身でありました。
 青年は、愛しい故郷のことが忘れられず、毎晩毎晩、母の姿を夢に見ていました。青年の村の母は、それは大きな銀杏の木だったそうです。
 ある時青年は、竹取の仕事を頼まれて、遠ヶ崎の街外れにある小山に入っていきました。森の景色に故郷の風景を思い出していると、地べたに一枚、銀杏の葉が落ちているのを見つけました。
 銀杏の母を懐かしく思った青年は、小山の中で、銀杏の木を探し回りました。そして、一本の銀杏の老木を見つけました。
 青年は大いに喜んで、その銀杏の木を気に入りました。やがて仕事の合間を縫って、銀杏のもとへ通うようになりました。
 けれども彼は、銀杏の木を見れば見るほど、郷への想いを募らせるようになりました。そしてとうとう、苦しさに胸を病んで、働くこともできなくなってしまいました。
 青年は銀杏の側に小屋を建てると、僧侶のごとく、山の中に籠ってしまいました。
 そして彼は、ある不思議なまじないを思いつきました。
 それは、落ちた銀杏の葉を一万枚、日の出から日暮れまでに真っ二つに裂いていくというものでした。それを成すことができれば、この世のありとあらゆる病、苦しみ、未練と別れることができる――そう信じて青年は、毎日銀杏の葉を裂くことに明け暮れました。
 日の出ている間に一万枚の葉を探し、少しも休まず裂いていくことは、容易いことではありませんでした。それでも青年は、ある秋の終わりの日に、一万枚の葉を裂くことを叶えたのです。
 青年は、最後の葉を裂いた途端に、郷への未練と別れることができました。そうして、不思議なことに、彼は姿を消してしまいました。
 小山には、銀杏の老木と、家主のいない小屋だけが残されました。やがてその銀杏は、別れ銀杏と呼ばれるようになりました。

 語り終えて澪を見ると、顔を赤くして泣いていたもんだから、俺はおかしくなってしまった。
「おい、そんなに悲しい話だったか?」
 笑って澪の肩を叩いたけれど、彼は泣き止まなかった。俺はなんだか、小さい子供にひどいことを言ってしまったような気分になった。
「だってその人は、本当はふるさとに帰りたかったんですよね……あまりにも悲しいです。消えちゃうだなんて」
「なるほどな、そう捉えてるのか。俺はこの終わり方、幸せに故郷を夢見ながら成仏できました、って感じで、良いと思うんだけど……」
(ソウソウ!)
 木霊が横槍を入れてくる。他の奴らより大きなそいつは、この別れ銀杏の木霊だった。
(ダッテコノ昔話ハ ウイチャンノ考エタ オ話ダモン!)
 余計なことを言う年寄り木霊を、俺は茂みの中へ投げやった。
「えっ……羽衣さんは、文筆家だったのですか!」
 俺が木霊を放っている間に、澪はまたややこしい勘違いをしていた。
「違うって。俺は木守でなけりゃ、役者でも物書きでもないよ」
「そうですか……でも羽衣ってお名前、二文字だし綺麗だし、芸名みたいでかっこいいですね!」
「うん、まあ、芸名みたいなもんだよ」
「それじゃあ、芸人さんなのですか? 着物も靴もお洒落だし……」
 俺がどう言ったって、澪には察しがつかないらしかった。もしかすると、彼は見た目よりずっと幼いのかもしれないと思って、俺は質問をすることにした。
「お前さん、歳はいくつだ?」
「歳、ですか? えっと、十三ですが……」
 六つ下かと思っていたらたったの三つ下で、俺は拍子抜けしてしまった。どう話したものかと考えていると、澪が口を開いた。
「やっとわかりました! 羽衣さんは、ご馳走のお料理屋さんの、店員さんなんですね!」
「ご馳走のお料理屋さん? なんだそりゃ」
「私の故郷は巻砂という島なんですけど、そこの港町に一軒の料理屋さんがあったんです。一度外から覗いてみたんですが、鯛や白いご飯がお皿にたくさん並んでいて、お客さんたちはお酒を飲んで笑っていて、お正月みたいな賑わいでした。店員さん達も、羽衣さんみたいな着物を着ていて、とっても綺麗でした。それで、兄弟みんなでお小遣いを集めて行ったら、子供は来るな、って怒られちゃったんです。もしかしたら、お酒を飲むには小さすぎたからかもしれないんですけど……それで羽衣さんは、そういうお料理屋さんの人なのかなって思ったんです」
 澪が田舎の出身だと言うので、俺はそのことを彼の呑気さの理由にしたくなった。けれども、その「料理屋」に入ろうとした彼の兄弟たちは、今頃この思い出を笑い話にしているのだろうと想像できて、やはり目の前の少年が特別に子供なのだと思い直した。
 そうして俺は、澪のことが不憫に思えてきたのだった。
「お前さん、この際だから知っておいたほうがいいことだけどな……その料理屋が売ってんのは、飯だけじゃないんだ。その派手な格好の店員は、客に夢を見せるのを仕事にしてる。意味は分かるか?」
 澪はぽかんとしていた。夢というのを、何かの喩えだと思っているのかもしれなかった。
 この少年はは生来、ものを知るのに遅れているのではないか。そう思った俺は、世の道理を一から話すことにした。
「あのな、人間ってのは、母なる木から生まれるだろ。そんでその母なる木は、ずっとずっと大昔の、二人の神様から生まれたんだ。それは知ってるか?」
「二人の神様……天を司る息の神様と、大地を司る血の神様ですね。二人の神様が、天と地を結ぶものとして、母なる木々を世界中に作ったのです」
 澪はすらすらと答えた。彼は田舎者で、歳の割に幼い少年であることには間違いなさそうだが、実はその印象よりも聡明なのかもしれない――俺はそう思い直した。
「その通りだな。そして母なる木は、神を語り継ぐ生き物……つまり人間を、この世界に産み続ける存在となった」
 辺りには木霊達が集まっていた。奴らはいつも騒がしいのに、その時は珍しく、俺の話を黙って聞いていた。
「二人の神様は、その身も心も、全て人間に託したんだ。
 世界の全てであった神様の欠片は、やがて人間の魂のひとつひとつになった。あるものは花の姿の魂、またあるものは言葉の形の魂を持った。
 人間達は神を語り継ぐため、己の魂の姿形を知ろうとする。そしてまた、愛する人の魂を知るため、人間は……」
 言い淀んでしまって、澪が不思議そうに俺の目を覗き込む。
「人間はだな、その……何をするかというと……」
「何をするんですか?」
 真顔で問われて、俺はますます何も言えなくなってしまった。毎晩仕事でやっていることなのに、いざ面と向かって説明するとなると、妙な気恥ずかしさが邪魔をしていた。
 その場の空気を読んでか読まずか、それまで黙っていた白い空気の聴衆が、こと﹅﹅を言い放った。
(チュー スルンダヨ!)
 木霊の言葉に、すかさず澪が問い返す。
「『ちゅー』? 何ですか、それ?」
(キャー オメメサン 知ラナインダ!)
(チュー 知ラナインダ カワイイー!)
 木霊達が澪の周りに集まってきて、大騒ぎする。俺は蹴散らすのも面倒になって、ため息をついた。
「チューってのは……口づけとか、接吻って言ってな。人間が口と口をくっつけて夢を見る、大人の遊びなんだ」
「口と口をくっつける……それでどうすれば、夢が見られるのですか?」
「舌を……いやその、まあ、色々やり方があるんだよ!」
 澪はまだピンと来ていない様子で、ぼんやりとこちらを見ていた。その頃、彼の喉には、まだ例のもの﹅﹅﹅﹅が通っていなかったのだろう。
「なんだか、変わった遊びなんですね。口をくっつけて、くすぐったくないのでしょうか」
(ソノ クスグッタイノガ イインダヨネー!)
(ネー!)
 澪はふむふむと頷いていた。俺はやつらにげんこつをしようとしたが、すいすいと逃げられてしまった。
「変なこと教えるなっての! こいつが恥をかくことになったらどうすんだ、かわいそうだろ」
 そこで澪はやっと、これが何か秘すべき話題であると察したのか、さっきの泣き顔とは違うように頬を赤らめた。
「すみません。私、恥ずかしいお話だとは知らなくて……」
「謝るなって。みんなよりちょっとばかし、知るのが遅れただけだ」
 澪はまだ俯いていた。俺はそこで、彼の知りたがっていたことを、まだ話していなかったことに気がついた。
「俺は羽衣って名前で、夢売りをやってるんだ。夢売りってのは、遊君ともいって、さっき言ったようなことを仕事としてやる人達のことだ。お前さんとこの島の料理屋みたいに、店を構えて客を取るのもいるが、俺は街中で客を探してる。夢売りの目印は……この白い帯だ」
 俺は自分の首元を指して笑った。澪はやっと顔を上げて、俺の喉をじっと見つめた。
「……羽衣さん。大切なことを教えて下さって、ありがとうございました」
「いや、礼を言われるほどのもんじゃないよ。それより、木霊が見えても木守になっちゃいないのは、お前さんも同じだろうけど……やつらのことは、いつから見えてるんだ?」
 俺は、初めて会ったこの少年となぜ語り合おうと思ったのか、その元々の理由を思い出していた。
 その時の俺は、彼に淡い期待を寄せていたのだ。
 この少年も、自分と同じ境遇の者――木霊を見る身でありながら、木守となる人生を選ばなかった子供――なのではないかと、そう思っていた。
「はい。ひと月前に白い雲のようなものが見えるようになって、今日それが木霊であると気づいたのです。今は、この街で奉公をしているのですが……来年に故郷へ帰って、島の木守様に弟子入りさせていただこうかと思ってるんです」
 澪は、初めて俺に話しかけた時の、あの浮ついた仕草でそう語った。
 俺はそこで、自分が落胆していることに気づければよかったのだろう。けれどもこの胸は、その心の醜さに耐えることができなくて、彼に期待していたことすら忘れてしまったのだ。
「へえ、最近見るようになったばかりなんだな。この街へ来たのは、いつ頃なんだ?」
「遠ヶ崎へ渡ってきて、一年を過ぎたところです。この山からはちょっと離れてるんですけど、『すえひろ』っていう、靴と洋物のお店で働かせてもらってて……あ!」
 そこで澪が立ち上がって、俺に困った顔を見せた。
「ごめんなさい、そろそろ帰らないといけなくって。お夕飯の支度を頼まれてるの、忘れるところでした」
 小山の中は薄暗くて、日の傾きが見づらかったけれど、木漏れ日の光が薄くなっているのが分かった。俺と澪は、思ったよりも長く話し込んでいた。
「そっか。お前さんの店、遠いなら急がないとな」

 俺達は小屋を離れ、林道へ出ていった。茂みや梢の合間から木霊が顔を出し、はしゃいだ声で客人を見送っていた。
(サヨーナラ!)
(マタネー!)
「今日は話に付き合ってもらって、すまなかったな」
「いいえ! 木霊の見える方と知り合えるなんて、思いもしませんでした。羽衣さんとお話ししたいこと、まだたくさんあるんですよ」
「ほんとか、それなら良かった」
 振り向くと、澪が微笑んで隣に並んだ。その後ろを、別れ銀杏の大きな木霊が独りで追ってきていた。
(オメメサント オ別レ 寂シイヨー)
「あら、あなたは……別れ銀杏の木霊さんですか?」
(ソウダヨ! マタ 来テクレル?)
「はい、もちろんです!」
(ヤッター!)
 別れ銀杏の木霊は、歌いながら小屋の方へ跳ねていった。
「また遊びにきますね。うちの『すえひろ』は毎月九日、今日みたいにお休みなので……あっ、お家へ勝手に伺っても大丈夫ですか?」
 澪が心配そうに尋ねる。俺はこの少年とまた話せることを、心から喜ぶような、それでいて胸騒ぎがするような気持ちでいた。
「……ああ、来てくれよ。昼間は居ると思うからさ」
 やがて俺達は、はじめに出会ったつつじの咲く道に出た。澪は立ち止まって、俺の方へ向き直る。
「羽衣さん、今日はありがとうございました。あの……」
 そこで澪は、少しだけ言い淀んだ。
「……別れ銀杏のお話、悲しかったけれど、聞けて嬉しかったです」
 そう言って澪は、俺の返事を待たずに、淡い木漏れ日の道を下っていった。

 その日最後に見た彼の顔は、やわらかく赤らんで見えた。
 それが本当の事だったのか、もし本当だとすれば、どんな心がそうさせていたのか、今となっては知ることもできない。
「……ありがとうな!」
 俺もお前さんに聞いてもらえて、嬉しかった。
 そう言おうとして、俺は今日の日の去っていくこと、これからひと月の間、この身が人々の指のもとへ戻らねばならないことを思い――まじないめいた心で、口をつぐんだ。
 そうして、木漏れ日を散らしながら去っていった彼の、もう見えない背中に呼びかけた。
「おうい、お目々さん! 本当の名前は、なんていうんだ」
 暗い緑を作る木々の向こうから、彼は朗らかな声で返事をくれた。
「私の名前は、澪といいます!」


語り部

 夢売りたちの間には、このような物語が伝わっている。
 とある港町に、若い街娼がいた。彼はその職に身を削るあまり、例の病にかかってしまった。
 彼は病を隠しながら、街のはずれに隠れ住んでいた。病は治ることなく、顔も手足も白んでいって、食べ物を受け付けなくなり、水さえも飲まなくなった。
 それでも息の絶えることのないのが、その病の不可思議なところであった。その街娼はやがて、床に伏して過ごすようになり、ものを言えなくなってしまった。しかし彼の考えは、熱にうなされるときのように、昼夜絶え間なく巡っていた。
 夢か現か、彼の見るものは定かではなかった。そんなあやふやな世界に、ある時、突然現れた存在があった。
 それは、幻の中に住む魔の者だった。魔の者はあの世の王と名乗って、白装束に身を包んでいた。
 あの世の王と聞いて、街娼が恐ろしい心地でいると、王は彼に口づけをした。するとどうだろう、街娼はそれまでの恐れを失って、すっかり王の虜となった。やがて街娼の体は王のものとなり、魑魅魍魎ちみもうりょうの姿に変えられてしまった。
 それからその街娼が、一体どうなってしまったのか、知るものは誰もいないのであった。

「こういうおとぎ話ってさあ、語り手は誰なんだろうね?」
 夕闇の中、葉を黄色に染め上げた別れ銀杏の下で、白い薄衣を纏った少年が話している。彼は、倒れ伏した俺の小指を千切ると、血管を白い蔓草の形に変え、空中へと茂らせていく。
「独りで死んだり、消えたり、狂ったり、ぐちゃぐちゃになったりした人のことをさ、どうして語り手は知ってるのかなあ」
 少年は、当たり前の人の姿をしていながら、人間離れした気迫を醸し出していた。白金の長い髪、緑色の瞳は、それぞれが螺鈿のようなあやしい光を放っている。手足は細筆で描いたようにしなやかで、遠ヶ崎どころか、東海国じゅうのどの夢売りも敵わないたおやかさを備えている。
「王様。それは一般的に、物語が語り手による作り話であることの証です。……生者たちの世界においては、ですが」
 少年の背後には、眼鏡をかけた背の高い青年――この少年の従者が仕え、彼を王と呼んでいた。青年は厚い布地の白装束を着込み、浅黒い素肌を顔と手足だけに見せている。
「この街娼の物語は、彼がこの姿になってから語った体験記です。そして彼の魂は、このような短い物語を幾つか保有していました。それらは、作り話というよりも……自己投影された空想、あるいは、ノンフィクションに近いものでしょう」
「ふふ、そうだよねえ。だって、この子の中にあったこのおとぎ話、ただの作り物にしてはおいしいんだもん」
 王はそう言って、かつて俺の指だった蔓草の芽をつまむと、小さな舌先で舐める。その接触に合わせて、俺の体の隅々を梢の形のひびが侵し、白い血﹅﹅﹅を吹き出させていく。
「うん、甘くておいしい。ちょっとだけ苦いのが、大人の味ってやつだったりして。ね、マルも食べてみない?」
「いえ、ご遠慮致します。おれは彼の自叙伝を、言葉で読み取らせて頂きましたので……」
「『じじょでん』? ああ、マルが昔書いてたようなやつだよね、それ」
 王は、マルと呼ぶ従者の方を振り向かず、形を変えていく俺の体を弄んで笑っている。無邪気なその笑みには、戯れに虫を虐めるような楽しさが湛えられていた。
「どうしてマルもこの子も、人間みんなみいんな、何かを遺したがるのかなあ」
 俺の体から溢れた白い血は、銀杏の落ち葉の重なった地面に滲みていき、大きな泡を吹かせていた。やがてその泡のひとつが茶碗の形をとると、落ち葉の上を小さく跳ね始めた。
「さてと。この子の夢は、どれくらい拡がってくれるだろうね?」
 王は白い茶碗に口づけをすると、宙に放る。茶碗は別れ銀杏の大枝にぶつかって粉々になると、陶片の代わりに羽毛を舞わせた。大枝は茶碗を当てられたところから白く変色していき、枝先を白蛇の姿に変えながら崩れていく。
(アウウー)
 情けない声が聞こえた。
 見れば銀杏の幹の裏手に、その魂である大きな木霊が身を潜め、こちらの様子を伺っていた。微笑みのまま変わらないと思われた表情が、今は少しばかり不安に怯えているように見える。
「……厄介なのが居るね。マル、探してやっつけておいて」
「かしこまりました」
 マルは冷淡な声で答え、木立の方へ行って辺りを見渡す。別れ銀杏の木霊は、慌てた仕草で茂みの中に隠れていった。
「面倒なやつらのことは、しもべに任せるとして……本当に厄介なのは、あの人間かな」
 王がふいに笑みを消し、眼差しを遠くする。俺は嫌な予感がして、崩れかけている体を起こそうとした。
「きみの夢は、あの子の瞳のせいでき止められてるんだ」
 王はすぐに俺の目を覗き込むと、不敵な笑みを浮かべた。意識が王の瞳の色に染まり始めて、体のひび割れが白く燃えていく。
「ね。そうでしょう、ウイ?」
 その言葉が、耳に届いたときだった。
 俺の体は真っ白な火花を上げて、二つに分かれた。
 ひとつの体は、小屋の外壁にもたれて座り込んでいた。体じゅうから放たれた火花は、王の周囲で草花の茂りに変わり、空中に白い唐草模様を描いて増殖していく。王はその中を踊るように駆け回り、あどけない笑い声を立てている。
 そしてもうひとつの体は、その様子を小屋の屋根から見下ろしている、黄色い扇型のものだった。
 俺の魂は今、一枚の銀杏の葉に宿っているのだった。
(ウイチャン 急イデ!)
 すぐ側で、木霊の声がした。茂みから飛び出した別れ銀杏の木霊が、俺の周りをくるくると飛び回っていた。