見出し画像

『樹洞より』3・帳の浦

桧扇貝

 彼は水面みなもに道を描く。
 その身は水のうね、その声は千々ちぢのあぶく。腕のひと振りが水面をさらい、歌のひと声がしぶきを撫でる。彼の通るあとは、細波の足跡が続く。
 彼は水の原を行く。彼はいつからここにあるのか知れない、けれど行く宛には迷わない。目先には舟があり、そのともを追って彼は行く。
 彼は舟の尾となって、少しも絶やさず道を描く。彼の足跡を見た者は、そこに道のあることを知る。そうして彼に続こうとして、しかし畏れて旅を断つ。
 畏れる故は、彼の追う白い舟。その舳先へさきの向かうところは――。

「――おい、早く支度しろ! 澪!」
 ふすまを開け放つ音と怒鳴り声で、それまで見ていたものが夢であったと分かりました。私は布団から跳ね起きて、すぐに声の主に謝ります。
「旦那さま、すみません!」
「他の皆はもう起きてるぞ! さっさと台所へ行け」
「は、はい!」
 旦那さまは怒りに顔を赤くして、廊下へと出ていきました。私は目の前の布団を急いで畳みます。急に起き上がったものだから、心臓がばくばくと騒いでいて、それなのに頭はぼんやりとしていて、さっきの夢を見続けようとしています。
 大海原を泳いでいるようなその夢は、このひと月ふた月ほど、繰り返し見ていました。一年前、私がこの遠ヶ崎へ来た時の船旅を、心のどこかで懐かしんでしまっているのかもしれません。
 畳んだ布団を押し入れの中へ、みんなのものと揃えるようにしまいます。同じ丁稚の身であるオギちゃんとキヨちゃんは、先に台所へ行ってしまったようでした。障子の外はまだ薄暗く、いつも起きる頃と同じで、私は寝坊したわけではないようです。それなのに、旦那様もみんなも早くから起きているということは、私は何か、用事を忘れているのでしょうか?
 寝間着を着替え、私は小走りになって台所に向かいました。台所では荻ちゃんと清ちゃんが火を焚いて、朝ごはんの支度をしていました。
「荻ちゃん、清ちゃん、遅くなってごめんなさい!」
「澪、やっと来た! ねぼすけなんだからあ、全く」
 鍋をかまどにどかんと置いて、清ちゃんが言いました。荻ちゃんはその下にしゃがんでいて、火吹竹ひふきだけを吹きながら私を睨みます。
「今日は朝から、旦那さまのお友達がいらっしゃるでしょ。聞いてなかったの?」
「えっ、そうなの?」
「そうだぞ! 昨日旦那さまから聞いて、お前にも言ったもん。なー、荻」
 荻ちゃんが黙って頷きます。昨日のことを振り返ってみますが、そのような話は思い出せません。何か考え事をしていて、うっかり聞き逃したのかもしれませんでした。
 この遠ヶ崎の街に来て、靴屋「すえひろ」の奉公におつとめしてから、私はうまくいかないことばかりでした。
 みんなからは、いつもぼんやりしていると言われていますし、実際仕事は下手な方でした。遠ヶ崎や巻砂島よりずっと南、茶十見さとみから来たという荻ちゃんと清ちゃんは、私と同じ頃に「すえひろ」に来た同い年ですが、言われた仕事をなんでもすぐにこなすことができます。特に荻ちゃんは物覚えも良く冴えていると、番頭のナガさんやご近所さんからも評判でした。それに比べると、私はいつも旦那さまに怒られてばかりで、あまり役に立てている気がしないのでした。
「じゃ、これ洗っといて!」
 そう言って清ちゃんが渡してきたのは、たらいに入った白菜ひと株でした。根元にはまだ泥が付いています。
 私は流しに屈み、かめの水を柄杓ひしゃくで汲んで、剥がした白菜の葉を洗います。この季節の朝、甕の水はよく冷えていて、すぐに指が痺れてきます。
 遠ヶ崎は立派な港町で、一年居てもまだ、知らないものや初めてのものだらけです。近くに川もないのに水に困らないのは、街の地下のあちこちに水樋すいひという管が通り、井戸代わりの溜桝ためますという小池へ、川の水を運んでいるためでした。食べ物も巻砂と比べれば豪勢で、蒲鉾や卵焼きが普段の食卓にのぼり、来客には南蛮菓子が振る舞われることもありました。
 それでも、台所仕事のひとつひとつは、田舎と言われる巻砂のものと変わりません。それで私はたびたび、こういった丁稚の仕事をしながら、心苦しい懐かしさに見舞われます。巻砂にいる兄弟達、他の街へ出ていったみんなは、どうしているだろうか。木守さまなら私の悩みを、どう説いて下さるだろうか……。
 私はいつのまにか涙ぐみ、白菜を洗う手を止めていたことに気がつきました。
 かまどに立つ二人から顔を背け、密かに涙を拭います。そして、棚の脇に吊り下げられている、古びた一本の貝柄杓かいびしゃくを見ました。竹の柄に挟まれた貝殻は、すすけた色になってはいるけれど、元はこがね色の桧扇貝ひおうぎがいであることが分かります。
 私は台所にいる時、そうして心細くなった時、この誰からも忘れ去られたような古道具を見るのでした。
 あの貝はいつか、ふるさとの浜に息をした仲間であるかもしれない――そう思えば私は、遥か遠くに置いてきた心を、今にも取り戻せそうな気がするのです。


店しごと


 旦那さまのご友人は、午の刻ごろにいらっしゃいました。壮年のその方は、旦那様と同郷のお兄様だそうで、お二人は親しげに挨拶を交わされたのち、客間へと向かわれました。
 お客様へお茶を用意する仕事は、今回、荻ちゃんと清ちゃんに言いつけられました。私はと言うと、永さんの店番のお手伝いと、お掃除です。
 今日の仕事がいつもと変わらないものに決まった時、私は正直、ほっと安心してしまいました。旦那さまに頼もしく思われていないことは、少々悲しくもありましたが、もしお客様の前で恥ずかしい失敗をしてしまったらと思うと、緊張して足がすくむのです。
「……で、景気はどうだい」
 掃除道具を集めに勝手口を出入りしていると、廊下の向こうから、旦那様とお客様の話し声が聞こえてきました。
「最近はこの街も、ずいぶんと変わっちまったようじゃないか」
「ああ、まったくだよ兄さん。今じゃ、うちみたいな洋物の店があちこちにある。特にあの店ができてからというもの、客足がうんと減ってしまってな……」
 あの店というのは、この「すえひろ」の近くの通りにある商店、「成々屋じょじょや」のことでした。
 私がここに勤める一年ほど前に開いたその店は、本州にも店を持つ、大きな商家の組合が営んでいます。通りすがりに店先を覗いてみたことがありましたが、うちにあるような靴のいろいろ、西洋式のカバンや飾り物といった品物は、何でも揃えられていました。それでもって、元の組合が大きいためか、値段はうちよりも少しばかり安いのでした。旦那さまからすれば、それはあきながたきというものなのでしょう。
 いつか清ちゃんが、旦那さまは怒りんぼだと陰口を言ったことがありました。それを永さんがたしなめて、「旦那さんがああなったのは、『成々屋』ができてからなんだ」と言っていたことを、私は度々思い出すのです。
 そんなことを考えつつ、台所裏の物干しへ布巾を取りに行った時でした。庭の方から荻ちゃんが、早足でこちらへ歩いてきました。
「ちょっと澪、どいてくれる」
「あっ、ごめんね」
 荻ちゃんは黙って通り過ぎ、勝手口の方へ行きます。しばらくして、台所の中から、やかんの蓋を開ける音が聞こえてきました。お茶やお菓子の用意で、忙しくしているようです。
 荻ちゃんは真面目な人で、清ちゃんや大人たちからも頼りにされています。私もよくお仕事で助けられていますが、荻ちゃんは私のことを、あまり良く思っていないようでした。大人びた荻ちゃんと比べれば、私は出来が悪いから、見ていて鬱陶しいのかもしれません。
 もう少し仲良くできたら、と思うこともありますが、そのためには、もっと私がしっかりしなければいけないのでしょう。

「澪ぉ、こっちを手伝ってくれるかい」
 お店の奥で調度品の拭き掃除をしていると、永さんに呼ばれました。永さんは軒先に籠を出して、仕入れたばかりの布靴を並べているところです。
「はい、只今!」
 私は布巾を腰の帯にひっかけ、軒先へ向かいました。永さんの仕事を真似て、木箱に詰まった靴を籠に揃え、盛っていきます。
 その布靴はどれも、道ゆく人々に立ち止まってもらうのにぴったりの華やかな意匠で、その上、気軽に買えるような安価なものばかりでした。物によっては、つた、菊、梅や桜など、草花の綺麗な模様が入っています。普通ならそういった柄入りの靴は、店の奥に並ぶような上等な部類なのですが、軒先に並ぶものは、刺繍の代わりに判子で顔料を押したものなのでした。
「よし、こんなもんだな! 掃除も大体済んだろ」
 木箱が空になり、永さんがため息をつきながら言いました。
「あと少し、拭いてないところがあります。あっちの棚の上と、あそこの青い壺と……」
「んー、壺は見る人も少ないし、ぼちぼちでいいんじゃねえか」
「そ、そうなんですか?」
「うっかり割っちまう方が怖えぞ、そうなりゃ旦那さんにどやされるどころじゃねえ。わはは!」
 永さんは内緒話をするような仕草をしたあと、よく響く高い声で笑います。私はこの、あまり勤勉とはいえない会話が、店の奥の旦那さまに聞こえてしまったような気になってしまいました。客間は店先から少し離れているので、その心配はないのですが、思わず落ち着かない心地になります。
 永さんが叫んだのは、その時でした。
「わーっ! イっちゃん!」
 私は旦那さまがいらしたのかと思って、思わず息を詰まらせました。しかし店の奥には誰もおらず、永さんは通りに向かって叫んでいるのでした。
「あらあ、永ちゃん。お久しぶり」
 「イっちゃん」と呼ばれたその人は、これまでにも二回ほど見かけたことのある、お化粧をした綺麗な人でした。髪はつやつやのかんざしで留められ、胸元には白い帯がふんわりと結ばれています。
 薄布の白い首巻きは、巻砂では見かけなかったもので、この遠ヶ崎での流行りのようでした。通りをゆく人々の中でも、特に華やかな姿の人達がつけています。もしかすると、西洋人が首につけている襟締ネクタイなるものを、みんなして真似ているのかもしれません。
「イっちゃん、なかなか会えないから寂しかったよお」
 永さんが通りに出ていくと、「イっちゃん」は口元を隠しながら笑います。二人はお友達のようで、以前に見かけた時も、こうやって通りでお喋りをしていたのでした。
「ふふ、探してくれてたんだ?」
「もちろん! ね、今度また……あー、いや……」
 それまで大声だった永さんが、急に小声になって辺りを見回しました。私とも目が合いますが、すぐに目をそらします。そうして、ちょっと困った顔をして、鉢巻の上から頭を掻いています。
 何か、気まずい話があるのでしょうか。私は二人を邪魔しないように、店の奥へ退きます。
 しかし、永さんは私の後を追ってきました。
「澪、ちょいと店を抜けるが、頼んでもいいかい」
「えっ! でも、丁稚に店番は任せられないって、旦那さまが……」
「すまん、すぐ戻るから!」
 そう言って永さんは、店の外へと駆けていきます。そして、「イっちゃん」の肩を抱いて連れ立ち、何か楽しそうに話しながら、通りの方へ消えてしまいました。
 永さんはこの「すえひろ」で一番親切な人で、仕事の下手な私にも優しくしてくれますし、読み書きやそろばんも熱心に教えてくれます。ただ、旦那さまに隠れて仕事の手を緩めてしまうところは、私たち丁稚の間でも有名なのでした。
 私は静かになった店の中で、果たして丁稚の身で店番をしていいものなのかと、すっかり困ってしまいました。
 今日はお客様が少ない日のようですが、もしお買い物にいらっしゃれば、勘定をしなければいけません。その時、勝手に帳場へ立ってもいいのでしょうか。もし永さんがなかなか戻らなかったら、旦那さまのところへ行って、お知らせした方がいいのでしょうか。
 あれこれ悩みますが、とにかく店を空けるわけにはいきません。私は通りの奥を何度も覗き、永さんの帰りを待ちました。


とばり

 しばらく通りを見ていましたが、永さんは戻らず、私は気が急く思いでいました。港の方に船がいくつか着いたのでしょう、通りには人が増えてきます。
 道ゆく人々を見ていると、ふいに、山高帽やまたかぼうのお兄さんと目が合いました。洋装交じりのその方は、うちのお店に興味を持たれたようで、通りを外れて軒先へとやってきます。
「い、いらっしゃいませ!」
 永さんは戻りませんが、誰も応対をしないわけにはいきません。私はできる限りの明るい声を出して、山高帽のお客様に挨拶します。
「やあ、ここは靴屋かい?」
 お客様は、帽子のつばを軽く上げて会釈します。外套がいとうにはきれいな縦縞の織りが入っていて、どことなく都会的な気品を漂わせる方でした。
「はい、お靴なら東西問わず揃えております! 他には、輸入物のカバン、調度品などもございます」
「ふむ、なるほどね……」
 お客様は頷きながら、店内を見回します。安売りのものにはご用がないらしく、のれんをくぐって、店の奥の方へと進まれていきます。私は拭き掃除が半端になっていたことを思い出して、不安になりながらお客様の後を追います。
「これ、なかなか良いねえ」
 お客様が足を止めたのは、絹糸で菊菱きくびしの刺繍が入れられた、布製の飾り靴です。
 お客様の装いからすれば、少しその靴は華やかすぎるものでした。もしかすると、贈り物をお探しなのかもしれません。私は近くの棚の刺繍靴を指しながら、お客様に話しかけます。
「あの、こちらのようなお靴をお探しですか? 他のお色味や寸法のものもございますが、いかがでしょう……?」
「いやいや、結構。これが気に入ったんだ。しかし、五十銭もするのか。少しまけてくれるわけにはいかないかなあ」
「えっと……」
 お客様は腕組みして、首を傾げながら菊菱の靴を眺めます。値切りの交渉は、さすがに私が応対するわけにはいきません。
「あの、申し訳ありませんが……今、少しばかり番頭が出かけておりまして。私は丁稚の身ですから、お勘定を受け持つことができないのです」
「えっ、そうなのかい? 困ったなあ、俺は急いでるんだよ」
 お客様は機嫌を損なわれたようで、組んだ腕を指先でとんとんと叩きます。
「すみません、もう少しで戻ってくるかと思うのですが……」
「待てないな。三十銭で買わせてくれ、無理なら『成々屋』にでも行かせてもらうよ」
「えっと、その……」
 お客様は唇をとがらせて、通りの向こうを覗き込みます。元の知的な印象とはうってかわって、正直なところ、永さんや旦那様が陰口で言っている「お呼びでない客」のようでした。
「わかった。あんたが勘定できないってんなら、俺がここに金を置いていく。それでいいだろう」
 そう言ってお客様は財布を取り出し、十銭銀貨三枚を机に置くと、靴を取って懐へ入れてしまいました。
「あ、あのっ、お客様!」
 店を出て行くお客様を呼び止めますが、無駄でした。雑踏の向こうへ、山高帽が消えていきます。
 泥棒だと叫べば、近所の皆して追ってくれるかもしれませんが、三十銭は貰ってしまったので、そういうわけにもいきません。
「どうしよう……」
 私は店の前ですっかり途方に暮れてしまって、しばし立ちすくんでいました。五十銭の上等な刺繍靴を、三十銭で売ってしまったことになるのです。永さんがいなかったため、お客様が「お呼びでない客」だったため、ということもありますが、結局は応対をし損ねた私の失敗です。
 この失敗が、旦那さまにとがめられないはずがありません。損をした二十銭を、一体どうすれば良いのでしょう。
「澪ぉ、すまねぇ! 遅くなっちまった!」
 永さんの声で、はっと我に返ります。鉢巻を巻き直しながら、永さんが私の顔を覗き込み、不安そうな表情を浮かべます。
「どうしたんだよ、はなつらを赤くして」
「永さん……私、しくじってしまいました。ここにあった五十銭の靴を、お客様に三十銭で売ってしまったのです」
「ええっ! そりゃどういうわけで?」
「それが……」
 永さんにわけを話そうとした時、ちょうど店の奥から、賑わいの声が聞こえてきました。旦那さまと荻ちゃん清ちゃんが、お帰りになられるお客様を見送りに、店先へといらっしゃったのです。
「兄さん、今日は遠くからありがとう」
「こちらこそ、色々ご馳走になってすまんな! 君らの淹れた茶もうまかったよ、これからも頑張りなさい」
「ありがとうございます、精進します!」
 荻ちゃんと清ちゃんが、揃ってお客様に頭を下げます。私も慌ててお辞儀をして、赤くなっていると言われた鼻先を隠します。
 お客様が街頭へ去っていかれると、旦那さまは永さんの元へ向かいました。
「永。今日は人通りも多いようだが、店はどうだ」
「はあ、それが……」
 永さんが、困った様子でよそ見をします。旦那様は私の方を見て、そしてすぐに苛立った顔になりました。
「おい、澪。また何かやらかしたのか?」
「ごめんなさい、旦那様。ここに置いてあった菊菱の刺繍靴、五十銭のものなのに、三十銭で売ってしまいました……」
「なんだって!」
 旦那様が怒鳴ります。私は驚きで、自分の胸がずきりと痛むのを感じました。
「どうしてそうなったんだ、正直に言え」
「はい、あの……お客様がいらして、あの靴を三十銭にまけてほしいとおっしゃられたのです。ですが、その時永さんがいらっしゃらなかったので、番頭が戻るまでお待ちくださいと伝えて……」
「ちょっと待て」
 旦那様は私の話を遮って、今度は永さんの方を睨みます。
「永、お前、どこへ行ってたんだ?」
「あー、いや……」
 永さんは慌てて両手を振り、苦笑いします。確かに永さんは、長い時間お店を抜けていましたが、どこか遠くまで出かけていたのでしょうか。
「あの、道案内をしてたもんでですね、通りすがりの旅人に。それで、ちょっと店を抜けてたってわけです」
 永さんは笑いながら話します。あの「イっちゃん」という方は、永さんとお知り合いですし、この辺の人でしょうから、通りすがりの旅人とは思えません。嘘をついているのでしょうか?
「永さん、でもあの方は……」
「おい、永。道案内なら、澪にでも任せればよかっただろ」
 旦那様が再び私を遮り、永さんの方へ詰め寄ります。
「お前が店を離れちゃあ、話にならんだろう!」
「いえその、申し訳ないです! ちょっとですね、案内先が……えーと、澪には任せられないトコだったもんで」
 永さんが急に小声になり、旦那様が顔をしかめます。確かに、私は遠ヶ崎へ来て一年目ですから、まだ知らない道もありますし、スリに遭うから行くなと言われている通りもありました。
 旦那様は永さんの話に納得した様子で、短くため息をつきました。
「……はあ、永の言い分はもうわかった。で、澪。お前はどうして、二十銭も損をして売ることになったんだ?」
「あの……」
「早く言え。どうしてだ?」
 永さんの嘘を、もはや私の口から明かす時は来ないようです。私は泣き出したいのをこらえながら、つい先程までのことを話します。
「お客様は急いでいらっしゃるとのことで、三十銭を置くと、お靴を持って出ていかれてしまったのです。呼び止めたのですが、そのまま……」
「……その客、『ヤマタカ』じゃないか?」
「え?」
 旦那様のおっしゃられる「ヤマタカ」とは、どういう意味なのでしょう。答えに困っていると、荻ちゃんがこちらへ声をかけました。
「澪、知らないの? 近頃、遠ヶ崎じゅうの店で無茶な注文をして回ってる、変な人がいるの」
「そうそう! 山高帽を被ってるから、『ヤマタカ』って言うんだよ!」
 清ちゃんが続けると、今度は永さんが目を丸くして、私の方を向きました。
「澪、まさか『ヤマタカ』に遭ったのか? その客、どんな身なりだったよ?」
「あの……確かに、山高帽を被っていらっしゃいました」
 私の話を聞いて、旦那様が大きなため息をつきます。
「そいつが『ヤマタカ』だよ。あのなあ、世の中には、店としては相手しちゃならん人間ってのがいるんだ。そんな奴には、こっちが強く出なくちゃいけない」
「はい……」
 旦那様は腕組みをして、私の前に立ちます。後ろでは、永さんが困った顔をしています。
 さらにその背後には、荻ちゃんと清ちゃんがいて、私をちらちらと見ながら耳打ちしています。
 二人が手に隠す口元は、にやりと吊り上がっていました。
「お前みたいな弱虫は、この先やっていけないんだ。それどころか、周りに迷惑までかかる。それは遠ヶ崎でも、巻砂でも、どこへ行ったって同じだ。わかってるのか?」
 旦那さまの声が大きくなり、私は頭を下げます。
「申し訳ありません、旦那さま。もうこのようなことがないように、気をつけます……」
「わかってるのかと聞いてるんだ、なあ!」
 旦那様は声を張り上げると、私の肩を掴み、大きく揺さぶりました。胸がばくばくと騒ぎ、胃の中のものが喉へ上ろうとします。手足は先からしびれていって、宙に消えてしまったかのようです。

 そして、私の体は、本当に消えてしまいました。

 俯いて見ていた自分の爪先も、目の前にいた旦那さま達も、お店の棚も品物も、全て消えていました。そこには、何もありませんでした。
 私の周りには、あの白い帳が降りていたのです。


白い海

 辺りは薄絹をまとったかのように、ほんのりと温かみを帯びています。また、深い霧に見舞われているかのように、白く柔らかなものたちで占められています。その世界のどこにも私の体は無く、それなのに、確かに自分がここにいることがわかります。
 私を包むものは、これまで生きてきた中で度々見てきた、帳の幻そのものです。
 しかし、いつもと違っていることがありました。それは、これまでのような恐ろしさがなく、心がとても安らかであることでした。そして、この幻を見ている私の考えが、妙にはっきりとしていて、いつまでも続いていることでした。
 私は、先程までのお店での出来事を思い返してみましたが、何かの夢だったかのように思えます。それよりも、今ここに感じているものたちが、心の全てであるようでした。このままここに、ずっといられればいい――そんな考えが浮かんできます。
 やがて私は、帳の中を、泳ぐように進んでいることに気が付きました。
 ちゃぷちゃぷという水の音を、私の喉が発しています。両の腕は、水面に小さな波を立てています。けれども私の体は、既に人の形ではありませんでした。水音が私の声となり、波が私の身となっているのです。
 私は水面の世界を、一つの澪となって進んでいました。澪というのは、船の足跡を意味する言葉です。澪の前には、それを率いる白い舟がありました。
 舟は、どこへ向かうのでしょう?

 澪は舟のあとを行った。やがて、その場所に辿り着いた。
 そこは大きな樹洞の暗がりで、一人の人間と、彼の母が向かい合っていた。人間は、澪の記憶にある一人の隠者のように、黒い長衣を着た壮年の人物だった。しかし、髪は短くかむろにして、瞳は好奇心に爛々らんらんと光っているのが、見知った隠者の風貌とは違っている。
「母様」
 人間が、彼の母に語りかける。母は長い髪の、美しい人の姿をして、人間の前に裸で佇んでいた。表情は静けさに満ち、閉じた瞳は長い睫毛を伏せている。
「母様。私は、あなたの抱えるものを愛しています。そして私は……あなた自身を愛している」
 人間は、母の顔へと手を伸ばし、頬に触れようとした。しかし、その指は空を切るように、母の白い肌をすり抜けていく。
「あなたと同じ地平に居られたら。あなたのもとに居た頃へ、戻ることができたなら。どんなに満ち足りることでしょうか……」
 人間は目を伏せ、母の影から手を離す。母はうっすらと目を開くと、寂しげな表情を浮かべる人間へと語りかけた。
「私の心を分かるのは、お前だけだ」
 そう言って、母は人間のもとへ顔を近づける。二人は身を寄せ、静かに唇を重ねる。やがて母の体は、白い霧となり散っていく。
「母様、どうか私を、あなたのもとへ連れて行ってください」
 人間が、母の影へと手を伸ばす。霧の中を両手が泳ぎ、母は悲しみの表情を見せながら消えていった。
 残された人間は、力なく両手を下ろし、その場にうなだれる。
「私はいつか、白の嵐に呑まれたい。母様の白い血に、全て融けてしまいたい……」
 人間は、苦悶の表情を浮かべ、絞り出すような声で言う。やがて、うつむいていた顔を上げ、樹洞の入口に舟のあることを知った。
「そうか……ここは、私の魂の夢だったのか」
 人間は舟に乗り込むと、かいを手に取り、ゆっくりと漕ぎ出した。澪はその後ろにつき、進みゆく舟を追う。
「なんて静かな海だろう。波のひとつもない、風も聞こえない」
 人間が水面を見渡す。白いくうに白い水、辺りは純白に覆われていて、さっき発ったばかりの暗い樹洞も、すでに白の中へと消え入っていた。
 澪は、舟を漕ぐ彼が振り向いた時、その顔貌を見ようとした。しかし、彼の眼差しの辺りには、どうやっても目を合わせることができない。
 澪は不思議に思う。それと同時に、いつか感じていた得体の知れぬ恐怖を、少しずつ思い出している。自分の作る細波、小さなあぶくたちが、不気味にさざめき始めるのを感じる。
「皮肉なものだ。私の心はずっと、時化しけの海のように乱れているというのに……波ひとつ立たぬ海の名を、授かってしまっているのだから」
 ふと、人間が舟を漕ぐ手を止めた。そして後ろを振り返ると、己が水面に作った、一筋の足跡を見た。
「ああ……私は、船のあとを追う波のように、静かで強かな魂に生まれたかった。凪いだ海の水面をゆき、顧みることなく泳ぎ続ける――水尾みおのような魂に」

 かしゃん、という乾いた音で、私は目を覚ましました。
 びっくりして周りを見渡すと、そこは夕暮れどきの台所でした。流しには皿が干され、辺りには、かすかに煮炊きをした後の匂いが漂っています。
「え……?」
 いつもと変わらない台所の中を見ながら、思わず声が漏れます。
 私がさっきまで見ていたものは、今まであった帳の幻よりも、ずっと長かったようでした。それだけでなく、お店で旦那様にお説教されていたはずが、いつの間にか台所に突っ立っているのです。
 これは一体、何が起きているというのでしょうか?
「澪ぉ、いるかあ?」
 勝手口の方から、小さな声がしました。見ると、永さんが顔を出しています。
「今日は、すまなかったなあ。俺も旦那さんがおっかないもんで、その……」
 永さんは勝手口から、そろりと片手を出します。その手には、小皿に乗ったお団子がありました。
「これ、旦那さんのお客人が土産に置いていったんだ、澪にもやるよ。お前が飯抜きにされてんのがさ、ええと……見てらんねえもんだからさあ」
 永さんの話で、少しずつ頭がはっきりしてきます。どうやら私は、お説教から皆の夕飯の支度、片付けをするまで、ずっとあの幻を見ていたようなのです。飯抜きだと言われたこと、いつもの台所仕事をしたことは、それぞれ思い出せはしますが、どことなく夢の出来事のように感じられます。
 それよりも、あの白い海の世界にいた時の感触が、まだ全身の肌じゅうに貼り付いているのです。
「おいおい、ぼうっとしてどうしたよ? 腹減ってんじゃなかったのか?」
 永さんに言われて、確かに自分が空腹であることに気づきます。
「はっ、はい。いただきます、ありがとうございます」
「あんまり落ち込むなよ。じゃ、ばれるとまずいんでな!」
 永さんはそう言って、勝手口の近くの棚に小皿を置き、慌てた様子で出ていかれました。
 私はお団子を取りに行こうとして、かしゃ、という乾いた音を、再び耳にしました。それと同時に、つま先に軽い感触を覚えます。
 私の足元には、あの古い貝柄杓が落ちていました。桧扇貝が竹の柄から外れ、転がっています。
 私は貝を拾い上げ、煤を払いました。柄に挟まれていた一画に、煤けず残っていたこがね色が、貝の全体へと広がっていきます。
(モラッチャエ!)
 突然、おかしな声がしました。
「えっ、何?」
(モラッチャエッタラ モラッチャエー)
 再びおかしな声がします。ひどく近くで聞こえたようでしたが、台所には誰もいません。私は頭が変になったのかと思って、目をつむり、おでこをこんこん叩きます。
(ソノ貝ハ 君ノモノダヨ)
 声はまだ聞こえてきます。私はおでこを叩くのをやめて、目を開けました。
(ダッテ 君ノ目ノ色 ソノ貝ト オンナジダカラ!)
 私の目の前には、人の顔のような形をした、小さな雲が浮かんでいました。