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『樹洞より』 2・木陰

桔梗

 少年は、目の前で起こりゆくことを理解できなかった。
 学舎の瓦がところどころ燃えていて、その炎は白かった。白い炎からは栗鼠りすの尻尾が飛び出して、途中でくしに変わり、櫛歯の一本ずつをぱちぱちと弾けさせながら、宙に石楠花しゃくなげを咲かせた。それらは全て、漆喰しっくいを被ったように白かった。
 やがて、純白の石楠花のひとつが、少年の目の前にぱちりと音を立てて咲いた。少年はぼうっとした目でそれを見て、手を伸ばす。
「ギルギョン、それに触るな!」
 呼びかけられた少年は手を引っ込め、声の主を振り返る。そこにいたのは、彼の級友の青年だったものだった。
 石楠花の花びらが青年の体じゅうにまとわりつき、着物を端から白色に焼いていた。火の粉は白い川海老となって、青年の手足の上を波うつように走っていく。その足跡は純白で、全身を踏まれ尽くした青年はみるみる形を失くし、白い蓮花草れんげそう羊歯しだの茂みになって、地面を白色に燃やし始めた。
 ギルギョンと呼ばれた少年は、悲鳴を上げようとした。しかし、恐怖に引きった喉からは、かすれた息が吐き出されるだけだった。

 人々に庵と呼ばれる木守の住処に、私は暮らしている。港、学舎や田畑のある巻砂島南部の平地から、少し離れた深い山地への入り口が、私の生活の領域だった。
 澪の門出を見送ってから半年が経ち、夏の酷な暑さが翳り始めた季節であった。私は日差しの穏やかな朝方を選び、港の近くの市場へ出向いて、細々とした日用品と、注連縄の紙垂しでに使う紙を買った。
 太陽が天のいただきへ昇る頃、私は帰路の終わりがけにいた。
 学舎の北の林道を踏みながら、木立ちの中が薄暗く冷えていること、林を通り抜ける風が清涼なことを有り難く思う。港の市街地の様相は、何度足を運んでも好きになれなかった。漁師、商人、船乗りや遊君ゆうくんの行き交う港町の騒がしさ、海風が連れてくる漁港の生臭さに、私はいつも困憊こんぱいさせられた。
 首元に張り付いた襟を払いながら、これほどのことでこたえてはいられまい、と思う。今は亡き私の師も、私が弟子につく前は、木守の雑務を独りでこなされていたのだろうから。
 しかしあの方なら、ひとに用を頼むことは苦でなかっただろう、とも思い直す。それに、街の賑わいへ出向くことは、先生の望むことだったのかもしれない。
 私の胸の内には、軽い足取りで鐵国の港町をゆく、若かりし師の姿が浮かんでいた。

「ねえ桔梗ギルギョン、『ベギョム』って、何の意味?」
 片言の鐵国語で、その人は――のちに巻砂の木守を引き受け、私の先生となる彼は、尋ねた。
 十歳ほどだった私は、異邦人である先生と直接話すことを恥じらって、彼が旅路に陶丸すえまる島から連れてきた通詞を探した。通詞は私達より先を行き、人混みの向こうを歩いていて、船乗りと交渉をしていた。
「……『ベク』はハヤン、『ヨム』はブルッコッという意味です」
 無視するわけにもいかず、私は小さな声で答えた。先生は「はやん、ぶるこ……」と、私の言葉を反芻した。
 先生の顔を見上げれば、三十歳前後であることには間違いなかった。しかし、西洋人を真似てかむろのようにした短髪と、舌足らずの幼子のような鐵国語のために、私は先生を大きな少年の如く感じていた。
 歩きながら、先生はうんうんと悩む。
 先生の訊きたいことは、白焰ベギョムの語源のようだった。それが何を指すのかは、先生もひととおり知っていた。
 白焰ベギョムは、この世で最もおぞましい災厄だと言われる。
 集落間の紛争などで、母の樹体が大きく傷つけられたとき、その傷口からは白い血が噴き出す。やがてその白い血は、周囲の物事のことわりを狂わせながら、炎のように拡がり、村や街を呑んでしまう。紅国や鐵国では、その災禍を白い炎と形容していた。
 東海の小島である巻砂の郷を出て、理法を学びながら各地の母樹ぼじゅを見に渡り歩いていた先生は、流れ者である私と同じ立場でありながら、まるで違う魂を持っていた。
 私の胸にはいつも、故郷を呑んだ白焰ベギョムへの恐怖があった。しかし、先生の目には――自覚されていたかは分からないが――まだ見ぬ白焰ベギョムという災禍への、残酷なほどに純粋な好奇心が宿っていた。私が先生のことを幼く思ったのは、片言のためだけではなかったのかもしれない。
「桔梗、えーと、『はやん』って……何?」
 先生は再び尋ねる。私は自分の白い靴下や、道ゆく人の白い着物を指差そうとして、それでは間違って伝わりそうだと考え直した。しばらく悩んで、先生が道中で理法の紅文こうぶんを読んでいたことを思い出し、ひらめく。
「ハヤンは……『ベク』は、こう書きます」
 私は宙に「白」の紅字を書いた。先生は私の指を見て、「ああ、ビャクね!」と声を上げる。
「じゃあ、『ギョム』の字は?」
 「ギョム」ではなく「ヨム」なのだけれど、と困惑しつつ、宙に「焰」の字を書く。先生は、ほう、とひと声あげて沈黙し、やがて「エンのことか!」と感嘆した。
「そうか、白焰ベギョム白焰ベギョムねえ……」
 先生はやっと納得した様子で、東海語で独り言を言い始めた。
 その頃の私には東海の言葉が分からず、先生の独り言の間に白焰ベギョムという単語が聞こえてくるのを、落ち着かない心地で聞いていた。通りすがりの鐵国人達も、先生のことを度々いぶかしげに見ていた。
 それは、東海風でも西洋風でもある先生の出立ちが、珍しかったためだけではなかった。きっと、忌むべきものをどこか嬉々として語る彼に、本能的に異様さを感じたためだったのだろう。
 それから後、先生は私を連れて巻砂へ帰った。そして、故郷を失くした私を引き取り学舎へ入れ、巻砂の島民の一員とした。
 東海では白焰ベギョムが「白の嵐」と呼ばれていることを知ったのは、私が異郷の学舎に馴染めず、先生の住まう庵に居着いた頃だった。

 林道の出口に庵が見えるのと同時に、私の耳には、木守だけが聴くものが響き始める。
(……終わらせてくれ、異郷の木守よ)
 木々の葉擦れが人の言葉を奏でているような、はかなくもおごそかな音色で、その声は言った。
 私は慌てて庵の戸口へ走る。声は大きく聞こえるようになり、ざわめきで頭の周りが包まれたようになる。
(梗よ、どうか終わらせてくれないか。この世に苦しみを生み続ける、私というものを……)
 声に抑揚があらわれる。私は市場で作った荷物を玄関に放り、急いで縁側に干していた白衣を羽織って、産衣うぶぎぬを腕に掛けた。次いで、祭壇に預けていた包みを開き、はさみを取り出して懐に仕舞う。
(ああ……嫌だ、私は……!)
 声は続く。玄関に走り、履いた靴のかかとを踏んだままで、庵を飛び出す。
(私は誰も遺したくない……ひとりの人間の如く絶えてしまいたいのだ、おまえたちのように!)
 嘆きの声は私の耳を占め、頭脳を占め、体の全てを侵蝕しようとしていた。
 視界が白くかすむのは、真昼の太陽のせいではなかった。私の肌は夏の暑さを忘れ切り、触れるものたちに温度がないことを知って、雪に傷められた指のように痺れていた。
 白焰ベギョムと同じ色の幻に包まれながら、私は母なる木のもとへ向かう。
シンジョン……」
 たとい、このかれども。
 私はまじない代わりの詩を呟く。それは、先生が好んで書にしたためていた、理法の経典の言葉であった。
 嘆きの声が、叫びに変わっていく。
(ああ! 木守よ、私を殺せ!)
「……ヨンバン
 えにし、既につむがれり。
 靴を脱ぎ、母樹の注連縄をくぐりながら、私はまじないの言葉を続けた。視界は樹洞の薄暗がりに染まり、桃色の内壁が作り出す胎を捉える。洞内に充満する静かな血潮のぬくみが、屈み込んだ体の全体から伝わる。
 暗がりの中、白い幻が一人の人影へと収斂しゅうれんし、私の目の前に浮かび上がった。
「おまえも私を殺せぬのか、梗……」
 悲痛のこもった目で私を睨む彼は、巻砂の島民たちを産むこの木に宿る、母神であった。
「私の願いを、誰か……」
 母神はそう言ったきり、樹洞の暗がりの中に姿を消してしまった。
 私は樹洞の内壁の、やわらかな膨らみへと向き合う。腕ほどの太さをした筋の隙間からは、僅かに赤い肌が見えている。
 私はこの島の木守として、これからこの赤子を取り上げねばならなかった。

 木守に課された真の役目は、白焰ベギョム、白の嵐を起こさないことだ。
 母樹について学ぶ旅をしていた先生と出会い、その旅のわけが、巻砂の母神が狂気にさいなまれているためだと聞いた時、私は己の故郷を思った。
 紅国にあった私の生まれ故郷は、戦乱で白焰ベギョムに呑まれたという。そして、幼少の七年を過ごした鐵国の町は、狂った母神に魅入られた木守が母樹を傷つけ、白焰ベギョムを起こしたことで壊滅した。
「……シンジョンヨンバン
 再び詩を呟き、お産に取り掛かる。
 己を失わないためのしるべは、師の記した八字の姿で、私を象る音をしていた。


強き虚

(――クニノ 木守サン)
 お産を終え、赤子を抱いて樹洞を出た私に語りかけるのは、森の木々に宿る木霊達の声だ。木霊達は、赤子に名前を授けるため、お産の後に現れるのが常だった。
(ミンナノ 小サナ 兄弟ダー)
(オメデトウ オメデトウ!)
(可愛イ 人間ノ 子供!)
 木霊達の言うことはあどけないが、その声色に人間味は無く、母神のものと比べても奇怪な響きをしている。
(コノ 小サナ人ハ ドンナ名前カナ)
(ドンナ 魂カナ)
(知ッテルカ 知ッテルカー)
(知ラナイヨ 知ラナイヨー)
 木霊達のささやきが増え、洞窟に響く声のように重なり合って、私の周りに音の壁を作り上げる。残暑の森に鳴くせみ達の声は、木霊の声にかき消され、遠い音と化していく。
 それだけのざわめきを作る木霊の声は、私の胸に抱えられる赤子には届いていない。赤子は産声を上げ切った疲れで、穏やかに目をつむり眠っている。
 木霊の声を聞く者は、神代かみよには大勢いたと伝えられるが、今では一つの集落に一人か二人ほどしかいない。そのほとんどが思春期に木霊に気づき、木守の道を歩むことになる。中には、生まれつきその性質を持つ者もいるというが、この赤子の様子を見るに、彼は少なくともそうではないようだった。
(ドンナカナー)
(ドンナダロー)
 赤子の周囲に、雲の切れ端のような白いもやが浮かび始める。もやたちは、幼子の落書きのような丸い両目の形に、その下には笑った口の形に、それぞれ空洞を空けている。それが、木霊という存在にとっての顔だった。
(ドンナ 魂カ ナメテミヨウ!)
(ソウシヨウ ソウシヨウ!)
(ペロリト ナメレバ)
(ワカルヨ ワカルヨ)
 集まった木霊のうちのひとつが、ゆらめきながら赤子の顔へと近づく。私が僅かに赤子を掲げると、木霊は赤子に頬擦りをしたあと、小さな唇の上にふわりと乗り、もやの端をその中に吸い込ませた。
 やがて木霊は、体じゅうを栗のいがのように尖らせ、震えだした。そして、全てのとげを花びらのように開かせたかと思うと、しぼんで小さな雲の形に戻った。
 木霊は、この赤子の名前――彼の魂を彼のものたらしめる象意――が何であるのかを、口づけによって感じ取っていた。
(フムフム ナルホド)
 赤子の顔から離れた木霊が、私の目前に浮かび上がる。
 面のように空虚な彼らの顔は、木守でさえ表情を読み取れない。今までも、言葉の内容から感情を理解することはできても、人間と同じように通じ合えたことはなかった。
 しかし今、私は、その木霊に何かの表情を感じていた。
(外ツ国ノ 木守サン)
 木霊が私の顔に近づく。私は違和感を頭の隅に追いやり、ひざまずいて目を閉じると、赤子を固く抱いた。
 これからこの木霊は、赤子の魂がどのような姿形であったかを、短い幻として私の中に流し込むのだ。
(コノ子ノ魂ヲ 教エテアゲル――)
 赤く血を透かす瞼の闇を、白い稲妻が走る。唇に小さな風を感じるとともに、私は木霊の見せる幻に身を置いた。

 木霊の見せる赤子の魂の姿は、抽象的な紋様や色合い、あるいはぼんやりとした自然の事象の幻が多い。
 木守はそれを的確に言葉にして、赤子の名前にする。私の本来の名も、きっと木守が桔梗の花のような幻を見たために違いなかったし、木守としても、そうやって子供達に名をつけてきた。
 私はいつものように心を鎮め、幻の現れを待った。しかし、辺りに現れてきた幻は、これまでに見てきたようなものではなかった。
「人間……?」
 幻の中で、私は思わず呟いていた。
 目の前に、思わぬものが居た﹅﹅のだ。
 私の周りには、風景のようなものは存在していなかった。奥行きの捉えられない空間の中には、独り、背の高い白装束の青年が佇んでいた。
 私はまず、その青年の姿が鮮明であることに驚いた。
 南洋の者のような褐色の肌と、同じ色の巻き毛。目元には、西洋風に眼鏡がかけられている。白装束は、洋服とも違った見慣れぬ意匠の長衣で、絹のやわらかな光沢を放っている――これほどまでにはっきりと見ることができた幻は、今までにひとつも無かった。
 そして、次に私が驚いたのは、青年が私に語りかけてきたことだった。
「頼み事があります、桔梗ジェガンさん」
 木霊の記録でしかないはずの幻が、こちらの存在を認識していた。そしてその謎めいた人物が、今は亡き紅国の同郷達しか知らないはずの、私の最も古い名前を口にしていた。
「なんなんだ、これは……」
 この幻は本当に、赤子の魂を写したものなのだろうか。私は何かのあやかしに、心を惑わされているのではないだろうか――そう訝しんでいると、青年が再び口を開いた。
「桔梗さん、落ち着いて。どうか、おれの話を聞いてくれませんか」
 そう言って、青年はこちらへ歩み寄る。柔らかく優しげな声に似合わず、彼の表情は疲れて消耗した様子だった。青金色の瞳は冷えた光を放ち、暗い紅を差した唇はこわばっている。
「あなたが見ているこの幻は、赤子の魂の世界です。しかしこの世界には、どのような色も形もありません」
 青年に言われ、改めて周囲を見渡す。私達の周りの空間は、かすみがかった風に不明瞭で、白紙とも暗闇とも、はたまた曇り空ともつかない色をしていた。
「君は……そのわけを知っているのか?」
「はい。人間であるあなたの精神には、負荷の大きい話かもしれませんが……聞いてくださいますか?」
 青年が一瞬、苦しげに眉間をこわばらせる。謎めいた彼は、私たちとは異なる存在らしい。私が頷くと、彼は伏し目がちにこちらを見た。
「……おれのあるじが、この赤子の魂の核をえぐり取ってしまったのです。それでここにはもう、ほとんど何も残っていないのです」
 魂の核を抉る、と聞いて、私は背筋がぞっとするのを感じた。
 赤子達は、それぞれの魂の姿を持つ。私はいつもならこの幻で、ひとりひとりの魂の姿を見て、名前に託す。そして人間は、自分自身を見失いそうになった時、己の名前と魂の姿を支えに生きていく。
 けれどもこの場には、人にとって欠かせないものが、魂の姿が、少しも存在していない。
 そしてそれは、この青年の主人――おそらく母神や木霊達とも違う、人の知恵と道徳を超えた存在である何者かに、すっかり奪われてしまっているのだ。
 青年は話を続ける。
「主はあなた方のうち、一部の人々に目をつけ、その運命を弄んでいます。この赤子は運悪く、その一人に選ばれてしまった」
 そう語る彼の表情には、うっすらと悲壮の色が見える。この青年の素性は知れないが、少なくとも、私達と同じ人間的な見方は持っているらしい。人の魂を抉る何者かに仕えながらも、その行為は見過ごせぬものだと考えているらしかった。
「……君達は、一体何者なんだ?」
「おれたちは、あなた方の世界を観察する者です。あなたの世界観で言うなら、天道、あるいは奈落の存在でしょう」
 天道と奈落とは、理法で語られる死後の世界だ。神記ではノ国とノ国、聖教では天の国パライソ地の国インヘルノという言葉が、同じものを指すと言われている。
 あなたの世界観﹅﹅﹅と言って理法の言葉を持ち出すこの青年は、やはり神霊の類であり、彼が自称するとおり「観察する者」のようだった。木守と理法の僧を兼ねる私のことを、よく知ったうえで話しているのだ。
「つまりは、あの世の者ということか」
「はい。主は、あの世を司る王と呼ぶべき存在です。そして、人間に密かに備わっている死の欲動――無への帰還を望む心の、権化です」
「無への帰還を、望む心……」
 青年の話は、初めて聞くものであるはずだ。それなのに私は、無への帰還と言い表された観念を理解し、久しぶりに蘇った遠い思い出のように感じていた。
 存在したくない、させたくないと望む声を、私はいつも聞いていたのではなかったか?
「王はあらゆる者の心に、多かれ少なかれ干渉しています。そして、人の紡ぎうる全ての世界を、人の手によって終わらせようとしている……焔や嵐に形容される、白き災禍によって」
 白き災禍という言葉を耳にした途端、私を酔わせていた懐かしさは、鮮烈な記憶へと姿を変えた。
 少年時代、白焔ベギョムに遭ったあの日、混沌に呑まれゆく人々の顔は、恐怖に歪んでいた。
 私は逃げていた。白い有象無象たちの恐ろしさから。それらに身を焼かれる怖さから。
 そして、消えゆく人々の表情が、最期の瞬間に安らいでいるという事実から。

「桔梗さん」
 青年の声で、私は記憶の旅から揺り起こされた。
「気を確かに。それに呑まれてはいけない」
 目の前で、青年が憂いげな顔をしていた。見えざる風景の幻は、変わらずに続いている。幻の世界の中で放心するというのもおかしな話だが、私の意識の混迷は事実であったようだ。
「すまない、要らぬ考え事をしていた」
「気がつかれて良かったです。しかし妙だ、あなたは……元来、死の欲動への抵抗力が強い人物のはずなのに。まさか、王に勘づかれたか……」
 それから青年は、独り言を言うように小声になっていき、やがて眉をひそめて考え込み始めた。
 改めて見てみると、彼は変わった装いではあるものの、実存する人間の姿と少しも違わないようだった。王という者については想像がつかないが、この青年に関しては、まだ我々人間の方に近い存在であるのだろう。
「君は、その王とは違う考えなのだな」
 私が尋ねると、青年は俯いていた顔を上げた。
「はい。おれは王に隷属してしまった、死者の魂のひとつですが……かつて生きていた世界を、消し去りたくはありません。それで、破滅の運命を変えるため、密かにあなた方に接触しています」
 それを聞いて、私はこの青年のことを少し哀れに思った。彼は成仏できずにいる、幽霊のような存在なのだろう。
「この赤子を取り上げたあなたに、頼みがあるのです」
「頼み?」
「この赤子の魂は空洞のような状態で、非常に不安定です。成長すれば、巻砂の母神のように荒れた心を持ちます。そして、いずれ白の嵐の原因となります」
 唐突に冷淡になった青年の口調に、私は困惑した。まるで、政の文書を読み上げる役人のような話し方だ。
 そして私は、彼の言うことも理解できずにいた。
「なぜ、そのように想像するんだ? この子は生まれたばかりだ。先のことは、まだ……」
「想像ではありません。事実です」
 私の言葉を遮る青年の瞳は、眼鏡の奥で鋭い光を放っていた。
「あなた方の生涯は、枝や根のような無数の道に分かれ、幾通りもの世界として存在しているのです」
「どういうことだ?」
「あなたが今日という日、港町へ出た場合の世界があれば、庵で過ごした場合の世界もある。幼少のあなたが巻砂へ渡った世界があれば、大陸に留まった世界もある、ということです。……おれはあなた方の行く末を、幾度となく見届けてきました」
「それは……本当なのか? その話の通りなら、世界は数えきれないほど存在していることになる。君たちは、そんな無限のようなものを見続けているというのか?」
 青年は目を伏せ、静かに頷く。その表情には、何にも癒されないほど深い疲弊と、どこか神聖な諦めの感情が刻まれていた。
 あまりにも信じ難い彼の話は、己の人としての身には耐えられそうにない真実だった。あり得たかもしれない生涯が、あらゆる可能性の世界が、私達には及ばない領域に存在している。そしてこの赤子は、幾つもの世界において、白の嵐を引き起こす運命にある。私は途方もなく膨大な世界にこの身があることを、心の底から畏れた。
 そして、目の前の死霊の願いを知った。
「桔梗さん。災禍の運命を変えるために――この赤子を、殺してくれますか?」

 一瞬、この幻の全てが凍てついたようだった。

 磁器を割ったかのような鋭い高音と共に、白い光が走った。思わず後ろへ跳び退くと、雷の軌跡にも似た線が空間を横切り、私と青年の間を断絶していた。
「……夢が終わる」
 ひび割れの向こう側で、青年が呟いた。私達の体は、白く輝く亀裂を中心として、互いにゆっくりと遠ざかっていく。
「冥府の君よ!」
 遠のく白装束の姿に呼びかける。
「私はこの子を、殺しなどしない!」
 空間が砕けていく。青年の表情はひび割れの中で屈折し、既に見ることはできない。
「私は木守として、あの白い災禍を防がなくてはならない。しかしそれ以前に、私は一介の人間として生きている」
 散り散りに屈折した視界の中で、青年の手が握り締められるのが見えた。
「君も、かつて生者であったなら分かるだろう。人間は、あらゆる可能性に縋って生き、生かし合ってきた。たとえそれが、たった一本の、か細い糸のような望みであったとしても」
「ええ。そうですね……そう、でした」
 視界は既に、白い塵と化していた。私が声を張り上げるのに反し、青年の声は静かな口調のまま、ぼんやりと頭の中で響いていた。
「あなたはこの子に、何の名を与えますか?」
 青年の問いが、頭の中で反響する。
 幻の終わりが近づいていた。
「――サヤ
 私は独り、言葉を告げた。
 それは、死霊が私に問うたことの答えであり、この赤子に授けるべきものだった。
「鞘。凶刃をも包み込み、眠らせるもの。……何者にも刻まれぬ、強きうろを表す言葉だ」

 大きな目眩に襲われ、慌てて腕の中の赤子を抱きしめる。
 木霊達は、既に去ってしまったらしかった。森に囲われた母樹の丘には、蝉たちの声が響いている。
 意識は混濁していた。さっきまで見ていた信じ難いものたちは、ひどく長かったようでいて、このうつつでは一瞬のことであったのだろう。私の体は跪いた姿勢のままで、日は高く照り、野山の緑を輝かせている。その当たり前の視野でさえ、どことなく信じきれず、絵の中の光景のように感じている。
 そんな朦朧もうろうとした頭の中に、ただひとつ、強く刻みつけられた言葉があった。
「鞘。お前は、鞘という名だ……」
 木陰の下、鞘は真夏の木洩れ日を受け、寝顔に鮮やかな頬の色を輝かせていた。