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敵だった母は、敵じゃなくて母だった


僕には大好きな母親がいた。

雷鳴の轟く深夜の病院で、どうしても停電中に産声を上げようとする僕の顎が引っかかったおかげで弟と妹も帝王切開で産むことになった母親。深夜に裸で喚きながら出現。TPOをわきまえなさい。3人とも成人した今もなお、揃いもそろってお腹の痛くなるような心配ばかりかけている。

どこに行っても気さくな母親は僕の友達にもよく絡み、面白い母として評判のいい自慢の母親だった。同級生の母親たちより若く見られることも多く、親が学校に訪れるイベント時にも「絶対来んなよ」なんて言ったこともない。内気な性格の僕と違って誰とでもフレンドリーに話せる彼女は同級生からの僕の印象も変えてくれていることを実感していた。

母も僕もよく空の写真を撮る

いつも明るいエネルギーを放出してる彼女は家の中でもその手を休めない。オリジナルの言語を産み出しては会話のなかに放り投げ、もはや家族にしかキャッチできないレベルにまで達している。「しゃびくさげー」と言われれば暖房をつけてやれば良い。「ちわっても!」と言われれば、何かこちらに見当違いの言動があったということだ。それぞれ「寒い」と「違うってばもう!」のことである。彼女にかかれば異国の文明を感じるほどに変形してしまう。

不意に新語が投下されようとも、よっぽど派生の公式から外れなければすんなり理解できてしまうほどに僕たちは侵されている。弟と妹のあだ名遍歴にいたっては数えきれないほどで、どれが誰だか分からない。それら全てに脳死で返事をすると、だいたい自分のことだったりする。

そんな母だから同級生の前ではアホっぽい他文明の言語は控えてほしいと学生の僕は思っていた。自分のクールなイメージに及ぼす影響を危惧して。すぐふざけだして変なこと言うのが恥ずかしかったけど、友達には面白がられるので悪い気はしていない。この当時は、楽しい母とアホやってバカやって皆が笑ってくれてればそれでいいと、平和主義の僕は思っていたのかもしれない。

希望職種、志望動機、長所と短所、学生時代に経験したこと、御社に与えるメリット、社会人としてのマナー。

就活はだらけ切った僕を逃がしてはくれなかった。ふわふわした母とふわふわしていたことのツケがまわって来た。

自分を知らない僕にはいろいろと足りなかった。答えられなかった。ただ自分について知ったこともある。僕に就職は向いていない。特に志望動機なんて他人の一部を繋ぎ合わせたようなもので気持ち悪いくらい自分の言葉がなかった。離人感の漂う空っぽの人形はわけもわからず奔走していた。

同時期にいよいよ怪しくなってきた両親の価値観のズレ。別居する前から何度か行われた家族会議。全員が平和的解決を目指した。

毎日スーツに身を包み、文句のひとつも言わず黙々と働き続けてくれる自慢の国家公務員の父親。仕事をしながら僕ら兄弟のことを気にかけてくれる大好きな明るい母親。初めて2人の真面目な言い合いを目の当たりにして、解決とは程遠いところでの牽制であると気付いてしまった。釈然としない会議に、2人の印象が変わり始める。

父親はそもそもコミュニケーションが下手だ。話の軸がブレているし、自分の発言にたいして責任が伴っていない。本音をなかなか口に出せない。

母親は「子供たちのため」というフレーズを乱用して、自分の本音・意見を一切口にせずにそれっぽい事をまくしたて、正義感を振りかざそうとする。

我が家の平和の象徴

平和主義な長男の僕はなんとか安息の地を蘇らせたかった。守りたかった。深く根差した両親の価値観の違いはぬくぬく過ごしていた僕の力では到底すり合わせられなかった。未熟かつ無力だと、何も変えられずに悔しさをふんだんに味わえることを身をもって知った。

父を残して逃げるように引っ越した。当時は父親に非があると感じていたこともあり、母と一緒に住むことを選んだ。もちろん弟と妹がいたことも大きい。かつての平穏な環境を失い、おまけに就活に辟易して将来に対する不安を募らせた僕はうつ病を迎え入れた。それは自分だけの闘いじゃないことに気づかぬまま。


殺意が湧くほど憎かったのに。

学校にも行かず就活も中断して家に引きこもる日が続く。自分と向き合うしかやることのない時間の中で、初めて知らない自分がたくさん見えてきた。

ある日、仕事終わりの母親を飲みに誘って駅前の居酒屋で相談したことがある。どうやら「HSP」という気質が原因で就活自体が困難を極めるのかもしれない。僕にかなり当てはまる「INFP」という性格特性が生きづらい要因なのでは。そして無理してまで就職したいと思える仕事や会社、モチベーションがない、という旨を勇気を振り絞って伝えた。まだ甘えている。

待ち合わせの段階で違和感はあった。
仕事終わりで疲れてると思うけど
露骨に面倒くさそうな態度。
こっちも見なければ
なかなか腰も上げてくれない。
相談なんてしたことない息子が
相談があると言ってるのに。
明らかに嫌がっていた。

初めて知った、自分のこと。
初めて母親と、真面目な話をする。
初めて誰かに、相談するという経験。

自分を理解してほしくて、助けてほしくて。説明するためにぎっしりと書いたHSPや性格に関する資料。ホッチキスで留めた。ただ自分の傾向や長所、短所などについてまとめただけではあるが。ツラすぎる就活の先にビジョンを描けずにいる僕に、読んで生き方を教えてほしかった。労力に見合わないスピードでどんどん読み進める彼女は、ひととおり目を通したあとでハイボールを景気よくグイッと傾けた。その高々と上げたジョッキはうつむき加減の僕の視野からはややフレームアウトしてたけど、喉を通る音が僕のHELPも一緒に飲み干してしまったのは分かった。聞いてんのかよ。フラフラしやがって。もうなんて言われたか覚えてもねぇよ。

あの優しくって大好きな母親は助けてはくれない。
――ああ。『敵』だったんだ。
少し酔っている母との帰路は記憶にない。
思い込みが変わった。


かしこまった話し合いはしたこともなく、いつだって自分の意見を持たない彼女。「みんなの好きなようにしたらいい」というスタンスで、欲しいものも趣味もこれと言ってなかった。そうだそうだ、母へのプレゼント選びはいつも難航を極めるじゃないか。困ったら酒を与えとけばいいんだあんな奴。自分軸すらないのに相談しても仕方ない。

母親に対する恨みは日に日に募る。うつ病を経て思考力のついていく僕とは裏腹に母の思考力の低さに気づき、見下すようになってしまった。幼い言動には苛立ちが募り、一挙手一投足に殺意が湧いた。「死にたい」と呟けば、珍しい剣幕で「なんでそんなこというの!?」となぜか怒られる。刺すまでのイメージが湧いたときにはさすがに涙も出た。以前の優しい母親は変貌してしまった。

それからは特にひどい暗黒の時間を楽しんだ。すべての刺激、会話、現象は自分に向けられた攻撃と受け取った。お金が底をつき、たくさんの督促状が届いたころの、脳が内側から窪むような恐怖は一生忘れることはないだろう。鏡すらろくに見なかったけど、白目はなかったような感覚もあった。


僕には、大好きな母親がいる。

母親との関係がほぐれるまでに、長過ぎる4年の月日を捧げた。いや、鬱から学んだことの多さを考えればたった4年だったと信じたい。母も僕も時間をかけて成長し、自分が変われば相手も変わるということに気づく。母がある時から優しくおおらかに接してくれるようになって僕も変わっていった。地獄の延長線のはずだったのに、不思議なことに時間が経つにつれて世界に色が戻り始めた。

「こんなにも美しい世界で自分だけ灰色に包まれていたんだ」


数カ月前に引っ越した。
僕と弟。母と妹。
大した距離はないけど、二手に分かれることに。

ツラい記憶が点在する家、そしてずっと一緒にいた母親。その両方と離れてみて、言葉で表現しがたい嬉しい効果を感じている。

母も僕も、楽しそうなのだ。
新しい環境かつ距離をとることで、自分の軸を持ち直しお互いに何かに寄りかかっていた心が自立したように感じる。

趣味がなかった彼女は、かねてから興味のあったらしいレジンや樹脂粘土などのハンドメイド制作に励んでいる。レジンとは、透明感のある見てるだけで癒されるような小物が制作できるもの。自分の机すらなかったのに作業場なんて設けてメキメキ腕を上げ、家に顔を出すたびに作業場が拡張されている。ゆくゆくは商売に繋げる目標を掲げている。この記事のサムネイルは僕が撮った作業場の風景にしてみた。

「癒し」が彼女の人生のテーマらしい。つい最近知った。
ただ、「癒し」のステータスはほぼ最大値に達していると彼女は気づいていない。居るだけで誰かを助けられる存在だ。本業のセラピストを通して疲れ切った人々を癒しながら、こうして僕のことも助けてくれた。だから、どこか落ち着かない日々をようやく脱した今、彼女自身が楽しそうにしているのが本当に嬉しい。今度は魅力を伝える・引き出すことを得意としている息子が力になりたい。この力だって、母が気付かせてくれる時間を作ってくれた。アドバイスをしたり、アイデアを出したり見せ方の工夫をしてあげたり、たまに母の家に顔をださないとだ。

母の作品。左のネズミは後ろにハートを持っている。

僕も心身の調子がハナマル。
地獄を経由したとは思えないほど心が晴れやかで軽い。こないだなんて、自転車を漕ぎながら体ごと浮いてしまいそうな感覚があって思わず笑ってしまった。うつむき加減だった頭が上がって視線もとにかく高くなった。今度は足元にもっと注意を払わないといけない。生活を自分で組み立てていくうちに現実感が増し、内側に溜め込んだエネルギーを現実に落とし込む方法が分かってきた。さらには、やりたいことまで見えてきた。理想を描くことで生まれるエネルギーの強大さに、ワクワクしながら張り合っている。

僕も最近やっと、「鮮やかな街づくり」というテーマに行き着いた。人の個性を引き出し自分らしく生きる人を増やすことで、精神的にも視覚的にも鮮やかに感じる地域や社会を創りたいと思っている。曖昧に聞こえるかもしれないけど、今の言語力ではこれが最も近い、はじめて本気で打ち震えているビジョン。
経験しようと思ってできるものではない暗黒世界で自分と向き合い続けた。その経験があったから、自分らしく生きられていない人に気付けて、さらに本心や魅力を引き出すための能力に自信がついた。人を見る力やその人をデザインする力を思いっきり使って、自分らしく生きるための選択肢に溢れた彩り豊かな社会を創造したい。
だから僕は発信しないといけないし、ひとりでは実現できないからこのビジョンに震えてくれる素敵な仲間に出逢わないといけない。ちょっと頑張ってみるよ。

半年前まではまだ、どこか母を敵視してるところはあったし、相変わらず本音を漏らすことには抵抗があった。スルーされそうで。突っぱねられそうで。それが最近の母からは、無邪気さ、幼さ、癒やしを強く感じる。なんだか頼りないけど、これが誰からも好かれてしまう彼女本来の姿なんだ。以前よりも助けてくれる、応援してくれる、話しかけてくれる、相談してくれる。

先日、母の家に寄った。
晩ご飯が目的で押し入ったこちらがぎこちなくなるくらいに、なんだか母がとても楽しそうにしていた。アラフィフのおばさんが嬉しそうに見せてくれたスマホの画面には、ある若い国際カップルのショート動画が流れていた。最近とてもハマっているそう。そのコンテンツよりもあまりにも楽しそうに見せてくる彼女の方が面白くって、ニコニコとスマホを見るふりをして母を見ていた僕の心は温まりまくっていた。

僕の目にかつての楽しい母親が映るほどにまで、心の余裕を取り戻した。

なんでこの人はこんなにあったかいんだろう。
――ああ。『母親』だったんだ。
また思い込みが変わった。


父親から離れ3人兄弟を守ろうとして一家の主になった当時の母は、不安でいっぱいで余裕もなかったはず。目の黒くなった僕を直視できなかったんだと思う。あの日の素っ気ない態度の母親は自分が捉えまちがえた現実であり、視界の狭くなった僕が期待していた母親の姿とほんの少しズレていただけ。変貌し、目に映るものすべてが歪み始めたのは僕の方だった。

本来なら誰とでも気軽に会話ができて、困っている人をいつも探していて、いつでも人の相談相手になる母親だ。たまたまお互いに余裕がなくて心配事だらけだったことが原因。単純だ。それでも許してくれて、寄り添ってくれて、母自身が態度を変えてくれたから僕は自分の輪郭をはっきりさせることができた。

その瞬間を受け入れてくれなかっただけでずっと慕ってきた人を敵だと思い込んでしまう精神状態というものが人間には存在する。信頼している人に、勇気をだして、自分の軸を失った状態で心からの本音・相談をすると、あまりの重さで拒否された場合に、闇が迎え入れてくれるみたいだ。

母を恨んだ時期もあったとはいえ、いちばん彼女のふわふわした雰囲気を継承しているのは長男の僕だったりする。恥ずかしくてどうせ身につけないくせに、6年前くらいに6,000円でレジンネックレスを購入し、大学1年生の頃から大切に持っている。高くて使わないのに、心惹かれて買った。

母いわく、「ジャイアンのママ」が入っている。僕もよく分からない。

もともと同じものに心惹かれる親子。
久しぶりに身に着けて出掛けてみようかな。
また何か思い込みが変わるかもしれないし。




#思い込みが変わったこと

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