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読書の記録「ケーキの切れない非行少年たち」 宮口幸治
少年たちへの矯正教育が少年たちの認知能力の差に目を向けられずに行われてきたことが本書の問題意識に繋がっている。
矯正教育をのワークブックを終えるたびに「わかりました」という少年。しかし、この「わかりました」はその場しのぎのものであり、少年の中の罪に対する意識や行動が変容したものではない。
本書のもんだい意識は次の一文に記されている。
彼らにどんな特徴があるのか、どうすれば更生させることができるのか、そして同じような非行少年を作らないためにどうしていけばいいのか。
これらを解決するために著者の経験やこれまでの矯正教育の歴史、脳の構造や認知機能の多様な方面から調べられている。
著者が医療少年院での面接や検査を通して、次のことが明らかになった。
見る力、聞く力、見えないものを想像する力がとても弱く、そのせいで勉強が苦手というだけでなく、話を聞き間違えたり、周りの状況が読めなくて対人関係で失敗したり、イジメに遭ったりしていたのです。
見る力が弱いと、漢字の形が歪んで見えたり、友達がやっていることをまねすることが難しい。聞く力が弱いと、話した内容が周りの友達と違うように聞こえてしまい、受け答えもうまくいかず、イライラしてしまう。想像する力の欠如は、物事の後の展開や物事を多様な側面から見ることができない。これらの力は、学校教育では、当然のように使われる。小学校、中学校では配慮されるようになり、支援を受けることができる。しかし、それは知的障害、発達障害、親の理解等が揃った時に初めて行われるもので、診断や大人の理解が得られない場合は当然のことながら、支援を受けるのは困難である。
また、診断が受けられないギリギリの境界域の場合は、もっと努力しろと言われ、努力できないと甘えるなと見捨てられる。社会から切り離されてしまい、忘れ去られる。
矯正教育では、本人の理解力を気にしないから、非行少年たちも分からないというと怒られるので分かったふりをしているという。
悪いことをした子がいたとして、反省させる前に、その子にそもそも何が悪かったのかを理解できる力があるか、これからどうしたらいいのか考える力があるのか、を確かめなければなりません。もしその力がないなら、反省させるよりも本人の認知能力を向上させることが先なのです。
この記述は、子どもと接する機会が多くないと気づけないだろう。あれ?本当にわかってない?という時が多々あるからである。
また、これぐらいわかってそうだけど、分からないふりをしているのでは ないだろうかと疑ってしまうこともある。
最後に、何が悪かったのか言ってごらん?というと言えない子どもがいる。こういう子どもは、反省よりも前に認知機能の向上が必要なのかなと思えるようになった。子どもを見る視点を少しでも多く持っていた方が良い。一方的な見方で子どもに接してしまうのは、危険だと感じる。
自己を適切に知るには、人との生活を通して他者とのコミュニケーションを行う中で、適切にサインを出し合い、相手の反応をみながら自己にフィードバックするという作業を数多くこなすことが必要なのです。
しかし、サインの出し合いや相手の反応を見る力がなく、歪んだフィードバックをしてしまっていては、自己を適切に知ることができない。自己肯定感の高い低いも自己を適切に評価していなかったら、何の信用性もない。自分のしたことを振り返ることはできずに、また同じ失敗を繰り返してしまうかもしれない。
そもそも大人であっても相手からの反応を適切に読み取るの難しい場合がある。初めての場所や過度な緊張状態を強いられる場所では、より困難である。読み取るのが難しいからこそ、同質性に逃げてしまう。グループで固まってしまう。そうやって心理的安全を保ちながら、相手の表情を読み取っているのではないか。そう考える心理的安全を確保することも大切であろう。
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