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今日見つけたいい言葉

春服の準備もままならないのに、突然あたたかくなりました。

私は花粉に侵された目をこすりながら遅くに起き、窓を開けると、季節の変わり目を示す香り豊かな風が部屋に入ってきて、すっきりとした心持になりました。その匂いはどこか、ジンジャーエールを思わせるさわやかさがあって、のどが渇いていることを思い出しました。


パジャマのまま『古今和歌集』「仮名序」の冒頭のことをふと考えていて、もういちどじっくり読みたいと思い、調べて読んでみたりしました。

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

ことばのもつ力の大きさを表した文章として、最も古い名文だろうなぁなどと思いながら、ノートに書き写したり、プロ顔負けの演奏を披露するスーパーキッズたちの動画をYouTubeで見たりしていたら、とうにお昼を過ぎていました。


時間が経つとともに、部屋の中に入る光がどんどん増えてすっかりぽかぽかになり、「コーヒーフロートが飲みたい」と唐突に思いつきました。

くすんだピンクのジャケットを羽織りピアスをつけて、無駄におしゃれをして外に出かけました。

ソフトクリームを美味しそうになめながら歩くお姉さんを横目に、スーパーに向かいました。道ばたには、春の陽気を感じてうれしそうにした人たちが、たくさん歩いていました。

晩ごはんの材料とパン屋さんのパンと、LadyBordenのバニラアイスクリームを買い込んで、よいしょよいしょと家にかえりました。


パンをほおばりながら、noteを読んだりしていたら、みなさんいろんなことを考えていて、面白いなあ、いいなあと思いました。

面白くて心を揺さぶるような、私だけに書ける文章って何だろうと思いながら、しばらく考え込んでしまいました。

当然、考えても答えは出なかったので、とりあえずインプットをしようと思い、本棚の気になる本を全部引っ張り出し、拾い読みしました。


死こそ常態
生はいとしき蜃気楼


今日見つけたいい言葉です。

最近私の中で話題の、茨木のり子の「さくら」という詩の末尾。

人は生涯に何回さくらを見るんだろう?という問いから、ひとの一生の短さを思う詩。

儚さと美しさ、出会いと別れの比喩として幾度も使われてきたさくらは、樹の下に埋まる死体の血でその花を染めている、なんていわれたり、なぜかおそろしいイメージとも重ね合わされます。

そんな複合的なさくらのイメージを余すところなく想起させながら、すぱりと一つの結論に達する。人間は死んでいるほうがふつうで、もはや生きていることはとらえようのない一瞬なのだと。

遅くに起きてだらだらとしたり、食べるためだけに出かけたり、あれやこれやと悩んだりした私の一日は、この詩によってきゅっと引き締まりました。

さくらには少し早いけど、春の予感を感じる今日に、ぴったりでした。

人生とは蜃気楼のようなものなのだから、時間を無駄にしないようにしよう!と思う反面、こんな1日の積み重ねこそが、人生なんじゃないかという、いたく楽観的な正当化をしたりして。

まぁ、またいい言葉をみつけられたのだから、今日は良しとしようかしら。

そういえばコーヒー豆を切らしていて、コーヒーフロートを作れないことに気づきました。やっぱり今日は、だめでした。



さくら       茨木のり子
ことしも生きて
さくらを見ています
人は生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごごろつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

茨木のり子『おんなのことば』より



茨木のり子については、以下の記事でも。


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