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あるブリュッセルのレース商の物語 その2

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


前回までのあらすじ
 ブリュッセルのサブロン地区に店をもつジャン=バティスト・ゴドフロワはプファルツ=ズルツバッハ公の御用を仰せつかるが、代金が支払われず財政難に陥るのでした。

ブリュッセルのゴドフロワ家の人々

ー ゴドフロワ氏のその後

 【 ノイマン氏 】の事件はうやむやのまま時は流れ、半ば諦め気味のジャン=バティストにさらなる試練が待ち受けていました。

 1731年には7,495フローリン15ソル 1/4リヤール相当のレースを送ったハンブルクに住む取引相手の商人から、お客さまの好みが変わってしまいブリュッセルのニードルレースではない別のレースを送ってほしいと要求が届いたのです。

 すべてのレースが返品されてしまうことにジャン=バティストは悲嘆にくれて、その絶望感を相手に手紙で綴っています。

 「人々の趣味と流行というものほど専制的で気まぐれなものはないのです。」

1730年ごろのブリュッセル・ニードルレースのクラヴァット・エンド ( ネクタイ飾り )https://collection.cooperhewitt.org/objects/18444367/

 この当時ブリュッセルのニードルレースは「ポワン・ダングルテール」とも呼ばれていました。同じ年にロンドンのレース商人エリザベス・ピンクニージャン=バティストにポワン・ダングルテールについて問い合わせてきました。

 エリザベスはそのレースがどのようなものか判らず、それがとても美しくてお洒落なものであればロンドンで人々に販売したいと思うと返事を認めました。

 事業での挫折や心労はジャン=バティストの健康をむしばみ、1731年の暮れに彼は世を去ってしまいます。

ー ゴドフロワ夫人

 ジャン=バティストの没後、ゴドフロワ家の事業と家族を支えたのはゴドフロワ夫人でした。

 シャルル・フィリップ・ドーブレメとカトリーヌ・ユルスル・ド・サール・ムーランとの間の娘であるゴドフロワ夫人は、夫とのあいだに父親の名前を受け継いだジャン=バティスト2世【 ラ・プティット・ムール 】の愛称で呼ばれていた娘の2人の子供を授かりました。

 このレース商の物語は、つづいてゴドフロワ夫人が主人公となります。

 ゴドフロワ夫人は1732年から34年にかけて2人の子供を学校長に預けて家業に専念します。娘は1735年から1736年までノートルダム修道会、ブリュッセルの聖ドメニコ修道院の英国婦人会【 シュペレケンス・ハイス 】、ヴァランシエンヌの聖ウルスラ修道会で寮生活を送ることになりました。

ジャン・シメオン・シャルダン( 1699-1779 )の絵画 ( 1739年 )

 ゴドフロワ夫人は事業経営に専念するあいだも、お洒落に気を遣う女性だったようです。1744年には流行していた【 ポロネーズ 】を、仕立屋のヤン・ヴァン・ウィネンベック氏がゴドフロワ夫人のために仕立てました。

 ゴドフロワ家の食卓にはいつも鶏肉やローストが並び、ビールやとりわけローヌ、ブルゴーニュ、トゥール、ベアルンの4種のワインも並んでいました。美食の並ぶ食卓には上質なリネンが必要だと考えたゴドフロワ夫人は、ヤコブス・マリル氏からテーブルクロスとナプキンを187フローリン12ソルで購入したようです。

ジャン・シメオン・シャルダンの静物画 ( 1756 )

 そして、そのテーブルクロスとナプキンを兄である《教区長》と分かち合うことにしました。

 ブルジョワ階級の完璧な主婦、ゴドフロワ夫人は家を飾り立てることも忘れていません。

 ゴドフロワ家の古文書類のなかには、画家・家具職人・鍵屋・石工などの数多くの支払い書が残されています。1751年8月には画家のジュリアン・ディズベック氏に、私室のための《リーセの聖母の物語》を描いた絵の制作を22丁のピストルで依頼しました。ルジャンドル氏に《ふた冬にわたるオレンジの木の収容と管理》に対して2エキュを支払っています。大鍛冶屋のジャン・ミエル氏に《庭の門柱》用の鉄2本を製作するよう依頼したりもしています。

 1758年10月20日、ゴドフロワ夫人マリア・テレジアの発布した公共照明に関する政令に従いました。そして出入りの鍵師ルマルタン氏に依頼して、パイユ通りに建っていた彼女の家の《角》にランタンを設置させるのでした。

マルティン・ファン・マイテンスの描いたマリア・テレジア( 1717-1780 )の肖像
オーストリア女大公・ハンガリー女王・ボヘミア女王 実質的な神聖ローマ帝国君主の女帝

 この鍵師ルマルタン氏は数年前、ゴドフロワのレース店の看板を吊るす大きな《万力金具》を依頼されて納品していました。

 1750年にゴドフロワの店【 女帝 】を訪れたキャトル・クーロンヌ(石工や彫刻家を統括した職業集団)の組合長の議事録にはゴドフロワ家マリア・テレジアの庇護下にあったため、この看板が落下してしまうような不謹慎で不吉な「事故」がないように強化するよう促したことが記されているのです。


つづく

 


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