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マリー・アントワネットのレースの肩掛け

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


フランスのオークション

ー SOUVENIRS HISTORIQUES

 2017年のフランスのオークションで手数料込みで8,595ユーロで落札されたレースのフィシュー( 肩掛け )は、フランス王妃マリー・アントワネットが身に着けたと伝わるものでした。

 マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリッシュMarie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Lorraine d'Autriche ( 1755年 - 1793年 )は、興味の尽きない歴史上の人物のひとりで、日本人のなかにもその悲劇的な波瀾万丈の生涯に惹かれる方々は多いのではないでしょうか。

ヴィジェ=ルブランの描いた『 モスリンのドレス姿のマリー・アントワネットの肖像 』 ( 1783年 )
ヘッセン家の資産管理団体蔵

 近年では賛否両論ありますが、ソフィア・コッポラ監督の映画にもなったことは記憶に新しいと思います。

 マリー・アントワネットは、その存在や悲劇的な最期も相まって現在でも人々の注目を集める存在となっています。

 彼女にまつわる品々は度々オークションに出品され、その度に大きな話題となることもしばしばです。

 2017年のオークションで落札されたフィシューは、ポワン・ダランソン( アランソン・レース )で周囲が縁取られたポワン・ダルジャンタン( アルジャンタン・レース )のもので、扇型の額に入れられて代々伝わってきたものとされています。

2017年のオークションに出品された《 マリー・アントワネットのフィシュー 》

 このフィシューは1955年に、この悲劇の王妃の生誕200年を記念してヴェルサイユ宮殿で開催された大規模な展示会『 Marie-Antoinette archiduchesse, Dauphine et reine 』( マリー・アントワネット・大公女、王太子妃そして王妃展 )にカタログ番号506番で展示されました。

 カタログによるとリーニュ公妃ディアーヌ・ド・コッセ=ブリサック princesse de Ligne, née Diane de Cossé-Brissac ( 1869年 - 1950年 )が蒐集していたもので、同展のために貸し出されたのだとわかります。

 リーニュ家は11世紀に遡る古いベルギー貴族の家系で、エノー伯に仕えました。12世紀にベルイユ男爵の爵位を叙爵し、16世紀以降フォーカンベール伯、ライデン子爵、モルターニュ公、エピノワ公、ルーベ侯爵、アントワン男爵、シゾワン男爵、ヴェルシャン男爵、ワッセナー男爵、神聖ローマ帝国貴族のリーニュ公、アンブリーズ公、スペインのグランデとしてのリーニュ公と多くの爵位を所持した帝国貴族の名家のひとつでした。

 15世紀には家系の発祥地で初期の領地に因むリーニュ男爵位を授けられ、爵位は漸次リーニュ伯爵位、リーニュ公位と格上げされていきました。また20世紀に入りベルギー国王アルベール1世によってアレンベルク家の末裔である同家は殿下の称号を与えられました。

 このレースのフィシューを貸し出したディアーヌは第10代リーニュ公エルネスト・アンリ・ルイ・ラモラル・ド・リーニュの夫人で、マイエンヌ発祥のフランス貴族出身の女性でした。コッセ=ブリサック家は14世紀末に領主の地位を得た家系で、歴代にはフランス元帥、将軍、聖霊騎士団の騎士、パリ総督などの要職に就いた人物が見られます。

 コッセ=ブリサック家は三世代以上にわたってレジオン・ド・ヌール勲章を叙勲している家系としてAssociation des anciens honneurs héréditairesに入会が認められた家柄でもあります。

リーニュ公妃ディアーヌ・ド・コッセ=ブリサック ( 1869年 - 1950年 )


ー 額縁に刻まれた文字

 扇形の額縁には下部に« Fichu de la reine Marie-Antoinette donné par Mesdames de France »と記されています。これはこの肩掛けがルイ15世の王女たちから拝領した王妃マリー・アントワネットのものであることを意味しています。

額縁には« Fichu de la reine Marie-Antoinette donné par Mesdames de France »と
記されています

 これが事実なのかはわかりませんが、このフィシューを伝えたいずれかの人物が伝承を額縁に文字として残したようです。

 ルイ15世には王妃との間に8人の王女が誕生しています。長女のルイーズ・エリザベート・ド・フランスLouise Élisabeth de France ( 1727年 - 1759年 ) のみが婚姻し、そのほかの王女は幼いうちに夭折するか、修道女になるか未婚のままでした。

 四女のマリー・アデライード・ド・フランスMarie Adélaïde de France ( 1732年 - 1800年 )、五女のマリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランスMarie Louise Thérèse Victoire de France ( 1733年 - 1799年 )、六女のソフィー・フィリップ・エリザベート・ジュスティーヌ・ド・フランスSophie Philippe Elisabeth Justine de France ( 1734年 - 1782年 )と、サン=ドニのカルメル会修道院に入り修道女となった八女のルイーズ=マリー・ド・フランスLouise-Marie de France ( 1737年 - 1787年 )たちは宮廷でMesdames ( メダム )の敬称で呼ばれることとなります。

 このうちマダム・アデライード、マダム・ヴィクトワール、マダム・ソフィーの3人は未婚のまま宮廷に残り続け、艶福家の父王ルイ15世の愛妾と争うこととなります。そして殊更に低い身分から宮廷に上がったデュ・バリー伯爵夫人を蔑み嫌ったといいます。

 この3人のメダムは神聖ローマ帝国との同盟のための政略結婚で嫁いできたマリー・アントワネットを唆し、デュ・バリー伯爵夫人と対抗させたのは有名な話です。

 幼い王太子妃の監視役として母親のマリア=テレジアから遣わされたメルシー・アルジャントー伯爵はオーストリアへの報告に「 マダム・アデライードが王太子妃殿下にお教えした全ての知識のうち、妃殿下に有害でないものはひとつもない 」と吐露しているほど、メダムは宮廷での女性たちのいざこざの元凶となっていたのでした。

メルシー=アルジャントー伯爵 フロリモン=クロード  ( 1727年 - 1794年 )

 1774年にルイ15世が崩御したのち、このような叔母たちを疎ましく思った若い国王ルイ16世は1779年にパリ近郊のムードンに所在したベルヴュー城を叔母たちに与え、メダムはヴェルサイユ宮廷を去りムードンに隠棲することとなりました。

 宮廷のしきたりや伝統を蔑ろにする王妃によってトリアノン離宮への出入を禁じられた古くからの家柄を誇る老貴族たちは、やがてベルヴュー城に集うこととなりました。このベルヴュー城はオルレアン公の居所であるパレ・ロワイヤルと並び王妃に関する悪質な噂の発信源となったのです。こうしてマリー・アントワネットの評判は低下していったといわれています。

 1789年にフランス革命が勃発して国王一家がパリに移されると、マダム・アデライードとマダム・ヴィクトワールは王宮とされたテュイルリー宮殿に再び伺候するようになります。

 しかし教会資産の没収やカトリックに対する革命的な弾圧がはじまると、マダム・アデライードとマダム・ヴィクトワールは1791年にローマに向けて亡命を試みます。メダムは自身の姪にあたるルイ16世の妹でサヴォイア家に嫁いでいたクロティルドの援助を受けてローマに到着し教皇ピウス6世の庇護を受けました。

ヴィジェ=ルブランの描いた『 マダム・アデライードの肖像 』 ( 1791年 )
ジャンヌ・ダボヴィル美術館蔵
ヴィジェ=ルブランの描いた『 マダム・ヴィクトワールの肖像 』 ( 1791年 )
フェニックス美術館蔵

王妃のレース

ー アランソンとアルジャンタン

 王妃のフィシューのレースは典型的な1780年代のデザインです。この時代、レースのデザインの派手派手しさは消え失せて、むしろすごく地味なものへとなっていきました。

 これは、財政難で王室がレースなどに資金を投入できなかったわけではありません。

 ルイ16世が王妃の衣裳に対する倹約を促したにも関わらず、衣裳係のオサン伯爵夫人の納入業者ローズ・ベルタン嬢との交渉も虚しく1787年には過去最高額の経費を計上しています。

 マリー・アントワネットの衣裳係については↓こちらの記事をご覧ください。

 派手さを抑えた小さなモチーフの繊細なレース、これは王妃の好みを反映したものでした。

 マリー・アントワネットのレースのフィシューは、もし伝わっている来歴が事実であれば1780年代に作られ、1791年の叔母たちのイタリアへの亡命以前のどこかの機会に渡されたものだということになります。

 このような地味なレースを王妃が好んだことは、当時の肖像画からも明らかです。

ー 王妃の肖像画

 1780年代に、マリー・アントワネットは多くの肖像画を描かせています。1783年にはよく知られている青いサテンのドレスを着た『 薔薇をもつマリー・アントワネットの肖像 』や麦わら帽子を被りモスリンのドレスを着た肖像画などが描かれました。

 1780年代の半ばから後半にかけては子供たちと共に描かせたり、読書姿やイギリス様式のドレスとはいえ重厚な宮廷の仕来りに適う衣裳など、母性や勤勉さが表現された王妃としてのあるべき姿で描かれています。

ヴィジェ=ルブランの描いた『 マリー・アントワネットと子供たちの肖像 』 ( 1787年 )
ヴェルサイユ宮殿蔵
王妃の襟刳り、袖口を飾るアランソンかアルジャンタンのレース
マダム・ロワイヤル ( 第一王女 )と第二王子のルイ・シャルルの衣裳にも同様のレースが見られます

 国民からの批判や反発を緩和するために肖像画というメディアを使って国母としての王妃の姿をアピールする王室の情報戦略の結果、このような肖像画が増加していきました。

 黒貂の毛皮で縁取りされた絹ベルベットのドレスは冬の宮廷での正装です。そしてルイ15世が定めた衣裳規定によって、アランソンのニードルレースが冬の宮廷衣裳に使用されました。

 マリー・アントワネットの時代になってもその伝統はドレスコードとして受け継がれていたことが肖像画からわかります。

1780年代のアランソン・ニードルレースのボーダー
ヴィクトリア国立美術館蔵

 当時の典型的なアランソンのニードルレースでは、小さな植物文様を散らし、縁取りのカルトゥーシュ( 囲み文様 )も非常に小さなモチーフのデザインが主流となっています。

 これらのデザインはマリー・アントワネットの肖像画に描かれたドレスを彩るレースにも見られます。

ヴィジェ=ルブランの描いた『 読書をする王妃マリー・アントワネットの肖像 』 ( 1788年 )
ヴェルサイユ宮殿蔵
黒貂の毛皮で縁取りされ絹のベルベットで仕立てられたドレスは冬の宮廷の正装
ルイ15世によって定められた衣裳規定により冬のレースであるアランソンが使われています
1780年代のアランソン・ニードルレースのボーダー
縁のカルトゥーシュにさまざまなステッチ技法が見られますが、全体的に簡素な印象のデザイン
筆者蔵
カルトゥーシュにアランソンの伝統的なステッチ技法が用いられています

 1770年代の終わりからレースのデザインは急速に簡素化されていきます。価値観が大きく変わり、繊細さこそが全てを凌駕する美徳と考えれるようになりました。

ヴィジェ=ルブランの描いた『 読書をするマリー・アントワネットの肖像 』 ( 1785年 )
個人蔵

 ちょうど一世紀前の17世紀末期にも、レースのモチーフが非常に小さくなった時期がありました。髪を高く結い上げたり、後ろ腰を高めにした引き裾の衣裳の流行も見られました。

 ファッションがある一定期間を経て繰り返されるということは、17世紀から18世紀にかけても見られた現象でした。

アドルフ・ウルリク・ヴェルトミュウラーの描いた
『 トリアノンの庭園を散策するマリー・アントワネットと子供たちの肖像 』 ( 1785年 - 1786年 )
スウェーデン国立美術館蔵
当時流行したトルコ風のドレス
アランソンか、機械製チュールにボーヴェ刺繍を施したレースが見られます

 ヴェルサイユ宮廷での衣裳の流行の変化は瞬く間にヨーロッパ中に伝播していきます。

 このようなモチーフの縮小化はフランス国外で製作されたレースにも顕著に見られるようになりました。

1780年代のブリュッセル混成レースの袖口飾り
非常に緻密なニードルレースのモチーフにボビンのメッシュのグラウンド
筆者蔵

 マリー・アントワネットの繊細な感性はレースに対するデザインの簡素化や価値観の低下を招き、やがて勃発する革命の惨禍と相まってヨーロッパのレース産業に大きな打撃を与えて壊滅的な被害をもたらすことになるのでした。


その他のオークション

ー 王妃の靴

 フランス王妃マリー・アントワネットの生涯は現在でも多くの人々を魅了して止みません。この悲劇の王妃にちなむ思い出の品々がたびたび出品されてオークションを賑わせています。

 2020年にはヴェルサイユのオークショニアがマリー・アントワネットが身に着けたと伝わる靴を競売にかけました。この靴は山羊革製で爪先は絹サテンで作られています。足の甲には 3 つのプリーツ・リボンが重ねられて、革製のソールにグレーのパテントレザーで覆われたヒールを備えています。

2020年のオークションに出品されたマリー・アントワネットの靴
靴の踵に« Soulier de Marie-Antoinette donné à M. de Voisey »
「 ヴォワゼー氏与えられたマリー・アントワネットの靴 」と記されています

 当日、この片足しかない靴は43,750ユーロという高値で落札されました。当初想定落札価格を遥かに凌ぐ高額に多くの新聞やニュースで取り上げられて話題となったのも記憶に新しく、日本でもニュースに取り上げられたそうです。

 この靴を売却した一族は18世紀以来代々この靴を守り伝えてきたそうです。この家系に伝わる伝承では、一族の祖先のひとりであるマリー=エミリー・レシュヴァン・ド・プレヴォワザンMarie-Emilie Leschevin de Prévoisin ( 1762年 - 1816年 )が入手して、その没後から2020年のオークションまで彼女の子孫によって保管されていました。

 プレヴォワザンはマリー・アントワネットの侍女頭であったカンパン夫人の友人のひとりで、夫のシャルル・ジルベール・ド・ラシャペルCharles Gilbert de La Chapelle ( 1755年 - 1794年 )はルイ16世の妹のマダム・エリザベートの家政総監職、王の子女の秘書官、国王の第一書記、騎兵隊長などを歴任し、王家と非常に近い関係にありました。

2012年のオークションで落札されたマリー・アントワネットの靴

 この競売を去ること2012年に、同じくフランス国内のオークションに一対のマリー・アントワネットのものと伝わっていた靴が出品されました。

 縞柄の絹地で作られたこの靴は1775年にヴェルサイユ宮殿に仕える国王の従僕であったアレクサンドル・ベルナール・ジュ・デ・レティAlexandre-Bernard Ju-Des-Retyにルイ16世から下賜され、彼の直系の子孫に受け継がれたもので、一族に伝わる来歴により本物の王妃の靴だと鑑定されて62,460ユーロの高額の落札となりました。

 公人であるより私人として生きたいと願い宮廷の煩瑣な儀礼や伝統的な貴族社会に苦悩し、革命という時代に翻弄された繊細な感受性の持ち主であったマリー・アントワネットの人生は多くの人々の興味を誘い、王妃として宮廷の飾り物でしかない凡庸な人生を過ごすことが当然であった18世紀にあって唯一無二の個性として現在も魅力を失わず輝きつづけているのです。


おわり

 

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