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たゆたえども消えず。|連載小説 第一話 しげさんの肉じゃが


ほつんと左目からこぼれた枯死の露が鼻根を通り右目に入った。右目だけが水中にいるようだ。

それに声がなくてよかった。もしあるとするのならば、黒板の金切り声のような本能を劈く類いだろう。

このまま水中の沈黙を漂いたい。

瞼と重力に負けてしまうのがくやしいと執着する。わたしは、まばたきと対峙した。自然と眼輪筋へ力が入ると同時に呼吸が止まった。反射で唾を嚥下する。

「あっ。」と声が漏れた。

それは、ほつんと右目からこめかみへ流れ頭皮を伝い、髪の毛で分岐してなじんだ。わたしは頭をすこし浮かせそっと指先で拭った。

おとずれる凪の無常に逆らうことなく、しっとりとまばたきと呼吸を再開した。慎重に丁寧に、とても生理的で身体的な流れにまかせた。

夕方5時のサイレン。

それは凋落の痛哭。渇いた音は町を呑む。

それは夕陽のオルタナティブ。あたりまえに麻痺したからだには届かない。

それはひとときの微睡。時報はおわりとはじまりの記号である。

ただ、真摯に共鳴するのはシベリアンハスキーのウルだけだ。

峠に達するサイレンは、空気を灼く。ウルはかぎかっこを蹴散らして吠え続ける。本能の劈き。長い遠吠え。

わたしはその姿をライブで見ているわけではないが、まじまじと迫りくる。

空へ向かう熱の塊。うつくしい放物線を描き、ブレス。それに触発された近所の犬たちの覚醒。すこし離れた隣家から、柴犬の姉妹、バス屋のダルメシアン、散髪屋のゴールデンレトリバー、白内障の雑種の順で吠える。

峠を越え翳ゆくサイレンと重なる声たち。音を外しながら町に溶けてゆく。

ウルの声がだんだんと小さくなる。犬たちもそれに伴い小さくなる。

サイレンは地を這いながら最期にフッと褪せたアスファルトへしみ込んだのだろう。名残り惜しげにウルも静かになる。他の犬たちも静かに倣う。

ひと仕事終えたウルの姿が目に浮かぶ。

わたしもそうだった。肚底からなりふりかまわずおもいきり声を放つと、とてもすっきりとする。たとえ、声が枯れても切れても潰れてもあとのことは知ったこっちゃない、とふりしぼるといのちがザブンと波うち、その反動で瞬間の不必要がポーンと排出される。

それはチケットを購入して観劇したときのような静止で得るお淑やかなカタルシスではなく、自らの運動で得る野蛮なものだ。誰かの痕跡ではない、わたしだけがぽつんとその場で響くかんじ。なにも恐れるものなどない無敵感だけがじんじんとからだへしみわたる。はじめてウィスキーを呑んだときのように、熱が口から喉を通り胃へ落ちる、あの実感──

ごきゅん、と喉がなった。わたしは胎児のように手足をしまい、まるくなる。瞼を閉じて泡立つこころを吹き消した。

「大丈夫。大丈夫。」

わたしの声は霧のようだった。霞んで1m先も見えないから身動きがとれない。

ねじ切れてぼとんと落ちた泡立つこころを無心にしたい。すぐに深呼吸をした。からだのうちで数字を数えて呼吸に集中する。6まで数えながら空気を吸い3まで数えながらゆっくりと吐く。

すると、ウルがわたしを呼んだ。さんぽへ行こう、と呼んでいる。ウルはとても利口だから3回呼ぶだけでわたしがやってくることを知っている。わたしはむっくりと起き上がり、スマホをジャージのポケットへ入れ、タオルを持ち階下へ向かった。

リビングへ入ると、わたしの姿を見たウルが庭のウッドデッキで飛び跳ねている。わたしが肩かけリードとさんぽの必需品が入ったリュックをからだの前にかけてペットボトルへ水を注ぐと、ウルはうれしさを爆発させて、反復横跳びしたりくるくると回ったり高い声で甘えたようにうなってみたり、忙しなくぴちぴちしている。

私は掃き出し窓の外のウッドデッキへ出て靴を履き、ぴちぴちのウルへハーネスを、じぶんへ肩かけリードを装着した。

すると、ウルは急に動きを止めて耳を澄ませた。わたしも柵の目玉のような木目の一点をジーッと見つめて耳を澄ませた。ふたりで根差した彫刻のように静まりかえる。

遠くでエンジン音が聴こえる。一定の回転数でタイヤを転がす音もいっしょに。こちらへ近づく。聴き慣れた音。うなる車は坂を登る。タイヤと砂利の接触音。

ウルはうれしくてまたぴちぴちする。からだの中で純心をころがすように。犬もうれしくなると笑うのだ。わたしはリードをすこし持ち「ウル、しげさん帰ってきたね。」と声をかけた。グルンとタイヤが鳴くと柵からイエローのビートルが見えた。ビートルはいつもの場所に停まる。切れるエンジン。うれしくて騒ぐウル。

「しげさん、おつかれさま。いまからウルのさんぽ、いってきまーす。」

わたしはウッドデッキから手を振った。しげさんは車内からサングラスを上へずらして笑顔で手を振った。

わたしは、ウルにからだごとグンと引っ張られて広い庭の出口へと向かう。施錠をはずして外に出るとウルのパトロールがはじまる。電信柱や草木のあるところをくまなくチェックして、マーキング。わたしはその後ろからペットボトルの水でマーキングを薄める。ウルは新入りはいないか、不審者はいないか、この町に変わったことはないか、鋭い嗅覚と聴覚で判断している。

すると、前方のカーブからバス屋のダルメシアンの姿が見えてすぐにツネさんの姿が現れた。ふたりは町と同じようにオレンジ色に染まっている。ウルは立ち止まりしっぽを振り、わたしも立ち止まり前方のふたりへ向かい手を振る。

「ツネさん、バス、こんにちは!」

「おー!ゆきのねえさんとウルやか。きょうは、やっと秋らしゅうなったな。いまの気温がボっちりよ。ぼくももう歳やきん、暑すぎたらしんどーてこたえらーえー。けんど、日が暮れたらバスがさんぽいこおゆうて、きかんし。まあ、ぼくの足腰の運動にもなるし、まあ、ええっちゃええが、まあ、ゆきのねえさんの顔も見れるし、まあ、よしとしちょらー。」

わたしはツネさんの話は半分だけわかる。あとは勘で話をしている。ときどきわからなすぎて訊き返すこともあるけれど、そのたびに会話が脱線して「あれ?さっきまでの話なんだっけ?」となるので、わたしが方言をマスターするまでは勘スタイルでいこうと決めている。

ツネさんは戦後から両親がはじめたバス屋を継いで、いまは息子夫婦へまかせて隠居生活をしている。10年前に奥さんを亡くされて、豪邸を息子夫婦にゆずり、じぶんはバスの大きな倉庫の2階でダルメシアンのバスと棲んでいる。

いつもは人懐こい笑顔と喋り方のツネさんだけれど、ときどきフッと黙るとグレゴリー・ペックのような哀愁と渋さにあふれている。年輪のような皺がとてもカッコいい。

ツネさんは好物のコーヒーを豆から挽いてドリップすることが趣味で、ときどきおじゃましてごちそうしてもらう。春と夏にはアイスコーヒーを、秋と冬にはホットコーヒーを作っているらしい。わたしはまだホットコーヒーを飲んだことはないけれど、ツネさんの作るアイスコーヒーは深みがありほんのりビターで、絶妙なバランスがからだにしみわたる。

「ほうやほうや、あれよ、こんどめずらしい豆が手に入ったき、またうちへきーや。たまげるばー、おいしいきん。ほんでこないだもろうたふかふかのケーキよ、あれおいしかったきんまた焼いてもてきてや。ぼくの好物になったきん。ありゃあまっことおいしかった。コーヒーにも合うしな。うんうん。」

「はい。しげさんに習ったあのケーキ、また焼いておじゃましますね。ツネさんのコーヒー、たのしみだなー。」

わたしたちは明るくそう言い合い「じゃあ、またね。」と別れた。うしろを振り返るとツネさんとバスはぽっぽっと歩いていく。わたしは前を向き日が沈んだ安穏の空気を吸い込む。それは町を呑み込むオレンジ色のサイレンのようだった。

1時間のさんぽを終えて帰ると、リビングのカーテンの隙間から光が漏れていた。帰ってきた、と実感する。

ウッドデッキでウルの足を拭き、わたしは靴を脱いで片付ける。そして、ふたりしてリビングへ入った。ウルはキッチンにいるしげさんのところへ一目散。柵の前でしげさんを呼んでいる。

「あ、ふたりともおかえり。いまごはん作りゆうき、すこしまっちょって。」

「はーい、わたし、先に手を洗ってきます。」

しげさんの手元は見えないけれど、なにかを煮込むやさしい匂いがする。つつむようなあたたかい湯気も。

そうだ、あのときの匂いだ。

わたしはハッとした。過去がUターンして、いまをぎゅんと縮める。

わたしは洗面所で手を洗う。瞼を閉じて深呼吸する。縮んだこころを伸ばすように、ゆっくりと呼吸する。瞼を開けて水を止める。濡れた手を拭き、正面の鏡を見た。いつものわたしに「大丈夫。大丈夫。」とつぶやいた。



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あれは2か月前だった。夫の母であるしげさんがわたしたちのマンションへやってきたときだ。

夫のはるが突然亡くなり9か月経った月命日だった。茫然自失で仕事を辞め、眠れず、お酒に溺れ、ひきこもり、このまま死んでしまおうとおもっていたわたしの元へしげさんはやってきた。

わたしは鳴り続けるインターホンを無視してリビングのソファで寝ていたらいつのまにかしげさんがいた。

「ゆきちゃん!ゆきちゃん!しっかりして!ほら、しっかり!」

しげさんはわたしからタオルケットを剥いでわたしの両肩を抱えるように持ち横になったからだを起こした。

「もう!なんで電話にでんの!心配したやろ!」

しげさんはそう言うと、わたしを強く抱きしめた。そして、そのままの体勢でわたしの背中をさすりながら「大丈夫。大丈夫。わたしはここにおるきんね。」とつぶやいた。そのことばはお経のように神妙だったし、なにかの魔法のような気もした。

あたまに残るお酒がたぷたぷとゆれる。わたしは酔ったままの目でしげさんを見た。わたしを抱くしげさんの後頭部と頸と肩と背中を順番にすべっていく。そして、また返ってくる。頸でびたんと止まった。ほくろがあった。はるといっしょの場所にあった。


〈むかしね、夜のまっくらがこわくて眠れないとき、母さんがぼくのことぎゅっと抱きしめてさ、"大丈夫。大丈夫。わたしはここにおるきんね。"ってせなかをさすってくれたンだ。母さんの熱が暗闇で迷子になったぼくを導く灯台だったんだよ。〉


はるの話が記憶からこぼれた。それはビー玉のように透明で床をころがってゆく。ゴミであふれたリビングを横切り、片隅までころがると、ほつんと止まった。そこには、はるの描いたわたしの似顔絵があった。濃いえんぴつで描かれたわたしは笑っていた。

しげさんはわたしからからだをゆっくりと離して、わたしの両肘あたりをやさしくつつんだ。そして、テンポよく微笑んだあとにわたしの両肘をかるくぽんっとはじいた。

「よし、ゆきちゃん、お腹減ったろ?台所使わせてもらうきん。いまからごはんちゃっちゃっと作るき、それまでにお風呂に入ってきー。」

戸惑うわたしにしげさんは「はよーお風呂入ってさっぱりしてきー。ほらほら、いったいった。」と、わたしを掬うように立ち上がらせ、風呂場へうながした。

わたしはぼんやりしたまま服を脱いでシャワーを浴びた。熱いお湯をあたまからかぶるように流した。ジャージャーと流れるお湯は排水溝へ真っ逆さま。ざんざんと吸い込まれる足元のお湯を見て、人形のようなじぶんを洗った。洗いはじめると習慣が浮き上がってくる。不思議だった。慣れた手つきで丁寧に洗う。すると、あたまに残っていたお酒もいっしょに流れてゆく気がした。排水溝はざんざんと吸い込む。お湯も泡も汚れもざんざんと。

さっぱりした。うわーっと生きている、とかんじた。からだが芯からぽかぽかして、あたまやからだをバスタオルで拭いて、下着を着てからだを服でつつむ。洗濯機を回し、化粧水で肌を整え、髪の毛を乾かした。

リビングのドアを開けると、やさしい匂いがした。素朴であたたかい湯気も。

わたしは「あっ。」と声が出た。料理の下手なわたしの代わりに、はるが料理をしてくれた。はるの得意料理は肉じゃが。その匂いがした。

床に散らばっていたゴミがひとところにかたまり、歩きやすくなっていた。わたしはゆっくりとリビングに入り、キッチンを覗いた。

「あ、お風呂入ったかね?さっぱりしたろー?いま肉じゃがぬくめゆーき、そこへ座って待ちよって。」

しげさんはコンロの前でそう言った。わたしは「はい。」と返事をして、ダイニングの椅子へ座った。ゴミでいっぱいだったテーブルも片付いていた。ぐつぐつ煮える音と包丁の音と食器の音は、わたしがなくしたものをぼんやりと照らした。

そうだった、わたしはいつもここへ座り、はるを見ていた。そして、はるが作る料理を待っていた。

オープンキッチンから見えるはるを、ふと思い出した。真剣に料理するはる。そのはるとときどき、会話をしたことも。しかし、その会話は湯気のようでつかめなかった。なにを話したのか、もう憶えてはいなかった。

しげさんを見た。なにかを刻んでいる。すこし右に傾いたあたまは、はるといっしょだった。

はるはレースゲームをするときにも右のカーブを曲がるときだけあたまがすこし右へ傾いた。ふだん車を運転するときはそんなことはないのだけれど。なぜそうなるのか訊ねると「わからん。なんでかな?」と本人もわからない様子だった。

そっか、はるの右の傾きはしげさんゆずりだったんだ。

そうおもうと、はるを近くで強く感じた。そして、同時にしげさんにとても申し訳なくおもった。ひとり息子のはるを亡くし、その喪失は計り知れないはずだ。そのことにも気付けずに、わたしはガチガチに固まったこころでじぶんしか見ていなかった。情けなかった。しげさんはわたしのためにここへきてくれたのに。

「よし、ゆきちゃんできたで。ほら、取りにきて。」

わたしは「はい。」と返事をしてキッチンへ向かうと、器それぞれに肉じゃがとたまご焼きとマカロニサラダとお味噌汁とお漬物が盛られていた。わたしはそれをテーブルへ運んだ。電子レンジがメロディーを奏でる。キッチンから「あつッ!こりゃめった!」とシゲさんが熱々のチンしたごはんをおぼんへ載せた。

「あれよ、うちくとレンジが違うきやろか?あついわー。ほんで、その肉じゃがとマカロニサラダとたまご焼きはゆきちゃん好きやろ?前にうちきたときに言いよったもんね。ほんやき今日の朝に作ってタッパー入れて持ってきたがよ。きゅうりの浅漬けはさっき切ったわ。お味噌汁はインスタントやけど。ほら、これ。」

しげさんはわたしにお茶碗を手渡して「さ、さ、熱いうちにいただきましょ。」と微笑んだ。わたしたちは「いただきます。」と手を合わせた。

肉じゃがをひと口。熱くて口の中でころがす。はふはふ言いながら味わう。はるの味だった。しげさんから教わった作り方だから当たり前なのに、からだに沁みた。

「どーした?え?ほら、これ。」

しげさんはわたしにティッシュペーパーの箱を手渡した。「え?」と不思議におもっていたら、ほつんと落ちる水滴に気がついた。わたしは泣いていたのだ。あんなに泣いて泣いて枯れているはずなのに。

泣きはじめると、しくしくのつもりがおいおいとなり最後にはうわーっと泣いていた。肚底から声が出た。子どもの頃からいままでこんなに泣いたことはないくらいに泣いた。すでに意地や我執で後に引けなくなると勢いよく咽せて、呼吸が止まると泣くことも止まった。おもいきり咳き込んで、手で口を覆った。

「あらまあ、大丈夫かえ?」

しげさんは心配そうな表情でわたしを見ている。わたしは深呼吸して呼吸を整えてから「すみません。」と謝った。申し訳ないきもちと情けないきもちで目の前のしげさんを見据えることができなかった。

「なんちゃー、謝らんでもかまんき。ゆきちゃん。ゆきちゃんはだれにも遠慮せんでいいがで。ごはんを食べておいしいとかんじてもいいし、くやしいっておこってもいいし、さびしいって泣いてもいいし、はっぴーってわらってもいいがよ。そうやって、いったりきたりして、まよいながらでも生きて。ね?そばでわたしがおるきん。大丈夫やき。なんとかなーるッ。」

しげさんは誰も教えてくれない呼吸のようなことばを贈ってくれた。独特の空気とリズムとテンポとビートがわたしのからだに響く。

「ただひとつだけ。じぶんを粗末にしちゃだめよ。」

しげさんはそう言うと、きゅうりの浅漬けをぼりぼり食べた。わたしは「はい。ありがとうございます。」そう言うと箸を持ち肉じゃがを食べた。ほろっとしたやさしさがからだに満ちた。三日月が徐々に満月になるように、わたしは満たされた。

食べ終わると、ふたりで「ごちそうさま。」と手を合わせた。

「ゆきちゃん。もしよかったら、うちで棲まんかね?わたしにはなんちゃー遠慮せんでもいいき。いっしょにちょっとずつ前に進もう。」

しげさんはそうつぶやいたあとに、はるの面影をゆらして、しずかにほほえんだ。



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キッチンからしげさんがわたしを呼ぶ。「はーい。」と返事をして向かうと「ほら、これ、運んで。」としげさんからおぼんを受け取った。それをテーブルへ運び配膳する。ウルがわたしの足元でそわそわして「ウル、こっち。」とウルのごはんを準備した。わたしはウルに「まだだよ、まだ。まだよー。」伝えるとウルは座って待つ。ウルはとても利口だ。

わたしたちは椅子に座り「さ、さ、熱いうちにいただきましょ。」と言うしげさんの合図で「いただきます。」と手を合わせた。ウルはそれを確認するとじぶんも食べはじめた。

わたしたちは、食事をしながら話をする。会いたい人とは会えるうちに、たくさん話して、たくさん食べて、その時間をいつくしむことにしている。だって、永遠はないのだから。わたしたちはそのことを知っているから、この瞬間がかけがえのないものだと知っているから、いまをたいせつにしている。

わたしはうつむいていたこころを前に向けることにした。うつむいて気づくこともたくさんあった。まだ前に進むことは正直言うと怖いし、ときどき、さみしさやかなしさがいまを縮めるけれど。しげさんもときどき、ひとりでひっそりと泣くこともあるし、ふたりでいっしょに泣くこともある。「さみしーね。」と言い合いながら、いっしょにはるをおもう。その時間はさみしさやかなしさだけではなく、どこかあたたかくてすこしだけ明るいことに気がついた。

もしはるが視えたとしても、けっして触れることができないのなら、それはかなしい。あのおだやかな目尻も、陶器のような頬も、黒く艶のある直毛も、シュッと滑らかな肩も、胸の中から聴こえる熱い心音も、やさしい声も、はるに触れることでわたしのかたちを確かにできたから。

ひとりひとりはちがう。ちがうからこそ、はるの機微をかんじとることができたのだろう。どんなにからだとこころを重ねても、ひとは必ずひとりなのだ。その事実がかなしくもありうれしくもある。

わたしは、このきもちは乗り越えるものではなくて、ずっと持ってゆこうとおもう。はるはもういない。でも、空虚としてわたしの隣にいる。しげさんの横にもいる。確かにいる。此岸と彼岸のあわいに立ち、そっと耳を澄ませると、使いようのなかった記憶が深みをましてこころにこぼれる。

"大丈夫。大丈夫。ぼくはここにおるきんね。"

はるの声が聴こえる。やさしくたよりなくたゆたえども消えず、わたしを照らしてくれる。

もうすぐで、はるの一回忌だ。時間はあっという間に過ぎてゆく。ここへきて2か月。わたしはなんとか生きています。しげさんといっしょに。

「いつまでも、ゆきちゃんが、きーすむまで、おったらよろし。」

しげさんはそう言ってくれる。わたしはそのことばにもうすこしだけ甘えようとおもう。




つづく𓌉◯𓇋



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