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チャコットの仕事をしていた頃は・・・。

チャコット渋谷移転のニュースを見て30年前がよみがえって・・・。

私は20才、21才、22才とファッション水着の会社でデザイナーをしていました。
その会社は当時、松田聖子さんが可愛いフリルの水着をテレビ番組で着てくれて大ブレイクしていた会社。
その会社のデザイナーは、オリジナルブランドを1つ持ちつつ、デザインや商品開発の担当もあります。
その中の私のメイン担当は・・
♦銀座三愛・・・当時は華やかな水着大ブレイクゾーン
♦新宿タカノ・・・30年前のタカノは水着の勢いが凄まじかった
♦渋谷チャコット・・・チャコット初の水着開発チーム
この他に西武百貨店などがありました。

なのですごくすごく忙しく30年前の事でも覚えているんです。

どの担当会社も、時代の象徴的にブレイクしている会社でタイアップは作りこむ、広報やテレビドラマ用の特注商品を作りこむなど、凄まじい仕事量だったですね。


この時期って、今の時代なら4年生大学に行く人が多いから、学生している人多いですよね。

私はこの時、めちゃ!働きまくってましたです。笑!
ちょっと思うのは、18才~22才は感性が研ぎ澄まされる時期なので、感性の仕事をするにはこの時期を逃さないで欲しいなんて・・・。

よくあんなに仕事していたなーと、
今思うと笑いが出るけれど、
若いし、体力あるし普通にやってましたね。

その会社は、当時の私目線ではそんなに大きな会社ではなかったけれど、今思うと、全部自社縫製工場も広大に大阪の岸和田にあったし、取引先もめちゃ持ってたしすごい環境だったんだなって思います。

♦当時の日本の水着縫製代金は1枚800円前後ですね。
♦上代は1万以上2万くらいが相場かな。3万4万の時もありました。

これでわかるように、非常に儲かった業界です。

素材はイタリアやヨーロッパのものを買い付けしていました。
オリジナルで東レさんやカネボウ繊維と作ったりもしていたし規模が大きかったんだなーと。
当時の男の社長は、デザイナー気質で私達若手をどんどん外に出したがって自分は出て行かず・・・。
でも頑張れば、頑張るほど賃金も上がりまくって。

今思うと不思議だけど
ランチは帝国ホテルのお寿司だったり、銀座の高級なんちゃらのレストランだったりとにかく色んなところに連れていってもらったけど当時の私は六本木のディスコ好きで・・・
いっつも、早く帰りたいなーなんて思ってた。
高級料理店の味も、美味しいよね?くらいでさほど覚えてないのかも。笑。

ありがたみもさほどなくて・・・。
でも頭の中は仕事の事でパンパンだったと思う。
ずっと仕事の事を考えて生きていました。
だって、思いやデザイン、色々がどんどん叶う会社にいて自分の力が試せていけて面白くてしょうがなかったです。

そんな色々を想いだしながら、チャコットのあの渋谷の可愛いビルは当時からあって、MDみたいな人もファッショナブルで、テレビドラマみたいなビジネスの世界だったな。

30年前のお話です・・・
だから今とは全然違うと思いますが・・
どこの会社、人にも歴史があって今がある。

私、色んな仕事してたけど、
もしかすると
当時の自分では全然感じた事もなくって、
とても恵まれた環境でデザインや仕事を楽しんでいたのかな?

なんて書きながら・・・
ちょっと今までを思ったりした。

恵まれた環境。
それはとても大事だと思う。

わかってなくっても、あとになるとよくわかる。

当時は、自分に与えられてるものが普通で
なんも気づいてなさすぎた・・・。

本当は・・・
当時の私はオートクチュールの会社に入りたくて。
その環境に入れなかったのをどっかで持ち続け
水着の仕事を落ちた感じで見ていたから。

なんてなんて自分がいたんだろう。なんて思う。

今、思うのは・・・
現在の自分に最適な環境が自分の前に差し出されている。

だから、その時間を最高にしてベストを尽くす!

まわりと比べない。
今を大事にすること。

50才すぎて遅すぎる回答なのかもしれない。

70才になったら、もっと変わるのかな?

生きてるかもわかんないけれど
その時の自分に合うベストな環境で楽しくやってたい・・・。

デザインの仕事は華やかなんかじゃない。

売れれば追いつめられるし、夢でうなされることもある。
会社の売り上げが左右仕事でもあるから責任もある。
多分、寿命も減ってるのかもしれない。

そしてタイミングも大事。
自分がベストな感性を、今、世界、社会に出せる!
と思ったなら
その時はトライするべき時です。
感性の仕事はリズム。

必ず、今ならいける!

その時は大きな翼を広げてみてね。
とても素敵なお仕事です。






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