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書評/『星の時』(クラリッセ・リスペクトル著・福嶋伸洋訳)ブラジルの文豪リスペクトルが半世紀前に放った「不幸な女の矢」(2022年第8回日本翻訳大賞受賞)

 二十世紀の文豪、クラリッセ・リスペクトルの『星の時』が半世紀の時を経て、2021年に日本語で翻訳出版された。それに先んじる2015年に、アメリカでもリスペクトルの短編集が出版され、翌年『翻訳本のアカデミー賞』と称されるPEN Translation Prizeを受賞している。20世紀の南米文学の金字塔である彼女の作品が再び注目を浴びているのは何故だろう? 

 本書は濃いブラック・コーヒーのような小説だ。苦みがきいていて後味が重い。ヒロインのマカベーアはリオデジャネイロに住むノルデスチブラジル北東部出身のタイピストだ。社会の底辺で虐げられながら生きる彼女の現実は、この小説を執筆する架空の作者として登場するロドリーゴによって語られる。ロドリーゴは作家としての葛藤についても独白し、物語に浸ろうとする読者にジャブを放つ。

 美容クリームを食べてみたいと夢見るマカベーアの無知と危うさを残酷なまでの率直さで描きながらも、ロドリーゴは自分が創りだすマカベーアを深く愛していく。お金も知識もありながら悩み多きロドリーゴと何も持っていないのに幸せなマカベーア。正反対な二人は、鋏の両刃のように危険な対となって劇的なラストに向かって進んでいく。

 本書の随所に著者クラリッセの影が漂う。一九二〇年ウクライナ生まれのユダヤ人であったクラリッセは、生後間もなくユダヤ人虐殺を逃れてブラジルのノルデスチに移住した。幼くして母を亡くした後にリオデジャネイロに移転した生い立ちはマカベーアの素性と重なる。外交官と結婚したクラリッセは長年欧米で暮らしたが『幼少時に見たノルデスチのスラム街が最初の真実であった』と一九六四年に新聞紙上[i]で述べている。同時に社会的不平等に立ち向かう『文学的』手法の難しさについても言及[ii]しており、ロドリーゴのモノローグにはクラリッセの生みの苦しみが投影されているといえよう。

 本書初版が出版された数ヶ月後、クラリッセは五六歳でこの世を去る。死因はマカベーアの身体的欠陥として描かれていた臓器の疾患だった。幸福、自我そして死の真実を追求した『星の時』は半世紀近くに渡り世界中で読者の心を揺さぶり続けてきた。

 「この物語は、緊急事態、多くの人びとにとっての災厄のなかで起こる。答えがないので未完の本である。世界の誰かがぼくにその答えを与えることを期待している。あなたがたが?」(本書『著者からの献辞』より)

 一九七七年にクラリスが放ったこの問いかけが日本に届いたのが、コロナ禍の渦中にある二〇二一年三月(翻訳出版時)であったこと、そしてそれから約一年後にクラリッセの生誕地であるウクライナへの侵攻が始まった事実に、因縁を感じずにはいられない。不幸な環境のなかでも逞しく生きる女性を通じて描いたクラリッセの世界観は、疫病、戦争、自然天災が後を絶たない現在の私達が直面するものと重なるように感じる。  







[i] 詳細は本書英語版Clarice Lispector, The Hour (2011) , New Directions Ebookの Paulo Gurgel Valente氏(クラリッセの息子)による後書きを参照。


[ii]詳細は本書英語版Clarice Lispector, The Hour (2011) , New Directions Ebookの Paulo Gurgel Valente氏(クラリッセの息子)による後書きを参照。

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