[短編小説]水曜日のあの娘

  この街には小高い丘がないから、街全体を眺め、感傷に浸ることができない。高層ビルもないから、ヘリコプターにでも乗らないと俯瞰なんてできないだろう。

 家と田んぼと畑をパズルで組み合わせたみたいに、似たような景色の繰り返しで、全国チェーンと言われている飲食店は存在しない。絵で描くとしたら茶色と緑の絵具さえあれば完結してしまう。

 家と家の間隔が狭いから半径一キロくらいの家ならば、家族構成とか、親の職業とか当たり前のように知っている。それでも東京までは乗り換えなしで一時間くらいで行けるからそんなに田舎じゃないとかくだらない見栄がある。人間関係も、街も、なんだか湿っぽくて薄暗い。とりわけ嫌いなひとはいないが、特別好きなひともいない。そんなところに暮らしている。

 高校生になったら、大宮か浦和、春日部、越谷みたいな少しだけ栄えている街の学校に行く。そうすれば、もう少し息がしやすくなるのかな。この街に住む中学生の八割くらいはそう考えている気がする。これはあくまでぼくの肌感覚だ。

 考えごとをするときは、家から自転車で五分くらいのところにある竹林の中にある、鳥居に繋がる石段に腰をおろす。何が祀られているかは知らない。

 街を俯瞰することを諦めたぼくは、おそらく街でいちばんひと気のないところに身を潜めることにした。ここには自動車の音も、子どもたちのはしゃぐ声も、噂話も届かない。

 スマホを確認すると、クラスの仲のいいやつらのグループラインの未読が六十件を超えていた。よく読みもせず直近のメッセージに「それな」と返す。

 虫や蛙、鳥や蝙蝠の鳴き声、風が吹くたびに竹の葉が擦れあう音がイヤホンをブチ破って耳に響いてくる。

 無心でティックトックのおすすめ動画を眺める。多重な機械音はこの自然とは実にミスマッチだ。

 竹林を抜けて眼鏡をかけた女の子が現れた。制服を見るに、隣町の公立高校のものなので、年上だ。年下に見えるくらい擦れていない顔立ちをしている。眼鏡のせいだろうか。髪型は「ボブ」というより「おかっぱ」で、グレーのスカートの丈は膝下だった。

 ぼくを一瞥することなく石段の下のベンチに腰をおろした。まるで自分の家でくつろぐかのように遠慮はなかった。

 ぼくがここを安住の地として三年が経つが、彼女を見るのはきょうが初めてだった。いまにも逝ってしまいそうなおじいさんや、うさぎを抱いて散歩しているおばさんはたまに見かけるのでひとがまったく来ないわけではないが、同い年くらいの子は来ない。

 彼女は文庫本を開き、読み始めた。何が書いてあるのか、誰の本なのか、2.0の視力をもってしてもよくわからない。

 スマホと彼女を交互に見るが、夕方五時の市内放送が流れたら、彼女は帰った。

 それから週に一度、彼女を見かけることになる。決まって水曜日だ。

 彼女の顔は、家に帰っても思い出すことができない。特徴がない。すべてが平均の域を越えない。竹林の幽霊なんじゃないかとさえ思ったが、そういう薄気味悪さはない。身長は一六〇センチないくらいで、胸や尻はぺったんこだし、脚は棒みたいだった。

 何かSNSやっていないのかなとか、何か手がかりがあればすぐに調べられるのにとか、そういうことを思うが、そこまでして得られるものはなんだろうと思い、やめる。

 彼女が毎週読んでいる本の厚さが違うからずっと同じ本を読んでいるわけじゃなさそうだし、水曜日以外は何をしているのか、水曜日以外は本を読まないのかなど、次第に彼女のことを考えることが増えた。そういえば、彼女がスマホを見ている姿を見たことがない。

 よく知らない誰かの家の中や、最近買ったもの、学校の話は直接きかなくてもそのひとが発信してさえいれば知ることができる。事前に趣向を明かしてもらっていればこのひとのことを好きとか好きじゃないとか自分で考えて交流するかしないか決められるメリットがある。

 毎週見かけるあの子は、距離的にはこんなに近くにいるのにこころの内を知る術がない。話しかければ済む話だが、きっかけがない。

 雨期に入り、二週間、竹林に行かず、放課後は自宅で過ごした。水曜日になるとあの子はどうしているかな、ぼくと同じく家に居るのかなと考えた。

 翌週は夏日で、長袖のシャツを腕まくりし、石段に座るといつもの虫の声に蝉のような鳴き声が混じっているのを感じた。陽が強くなると、葉のにおいも一層強くなるように感じる。

 彼女は半袖のシャツの上に白いサマーセーターを着て現れた。いつも通り、自宅よろしくベンチに座る。

 体が火照る。腋に汗が溜まるのを感じる。竹林だからコンクリートの真上よりも暑さはだいぶ軽減している。それなのに空気が薄く感じるのは地球温暖化のせいかもしれない。

 石段をゆっくりと降り、不要な足音は立てないようにした。もし、彼女に話しかけるとしたら第一声は何にしようと散々考えてきた。

 ぼくは、小学生の頃からクラスでいちばん目立つグループに居た。だから、こういう物静かな女の子と話すことはほとんどない。お互い相容れないのをなんとなくわかっているからだ。

 彼女の前に立ち、正面からじっくりと見る。本から目を離し、彼女の視線がぼくの顔にきた。

「なんでしょう」

 耳に優しいホルンで奏でられそうな音域の声だ。

「よく、ここに来ますね。俺もよくここに来るんです」

 英語の直訳のようなことを口にした後、後悔をした。もし、ぼくが声を掛けたことにより、気分を害したら彼女はもうここに来られなくなってしまう。

「はい。そうですね」

 中学に居ると、話す必要のないひととはほとんど話さないし、まったくの他人と目を見ながら話すことなどない。

 あとからゆっくりと歩いてきた悔いは、自分たちが異性であることを思い出させてきたし、やっぱり女の子であることを意識してしまう。この子が男だったらこんなに考えなかったし、話しかけたらどうなるだろうと想像さえしなかった気がする。同じくらいの年齢の女の子に対して、恋愛対象になるかなとか、そういう尺度がまずあって、そんな自分を気持ち悪いと思う。それと同時に、人間という動物らしさはこうやって育っていくんだなと実感してきた。

 電子機器を介し、学校の友人以外のよく知らないひとと交流ができて、嫌になればすぐに切れる関係だし、そのひとの前からぼくが居なくなったとしても画面からことばが消えるだけだ。

 いまはただ、彼女の長くも短くもない睫毛に守られた、うすぼんやりとした二重瞼の瞳を見ながらこの次のことばを考えた。

「なにか用ですか」

 Siriにそう訊かれれば深く考えず答えたり会話をキャンセルしたりすることができるのに、いまはそういうわけにはいかない。

「用は、特にないんですけど、ずっと、話してみたいと思っていて」

「はい」

 彼女は訝しがらなかった。きっと高校でもクラスで身を潜めているおどおどしたタイプの子ではないのだろう。

「かといって、何を話したらいいのかも、わからなくて」

 お互い目を見つめ合いながら、瞬きと呼吸を繰り返した。はっきりとした蝉の鳴き声が世界を揺らした。体から汗が噴き出した。

「すみません。また話したいことが出てきたら話しかけます。だからここに来なくならないでください」

 よくわからない謝罪をすると彼女ははっきりと「はい」と言った。

「失礼します」

 ここで帰ったら、もうこの竹林に来られなくなるのはぼくのほうだと思い、意地で石段にのぼり、腰を下ろした。

 頭にこびりついた羞恥心をどうにか溶かそうと、ティックトックを開く。知らない場所に住む、一生目を合わせることがないかもしれない女の子が流行りの曲に合わせて踊る姿を見た。イヤホンをブチ破って蝉の輪唱がきこえる。

 

 

 毎週水曜日にぼくのお気に入りの竹林に現れるあの娘は、毎回違う本を読んでいる。名前はまだ知らない。

 蝉の鳴き声は途絶え、鈴虫やコオロギのような鳴き声が響くようになったが、彼女に話したいことはまだ思いつかない。

 第一志望は春日部の高校にした。大宮や浦和に比べると店は少ないが、駅の近くにショッピングモールがある。そこにはマクドナルドも映画館もある。

高校生になったら、とか、大人になったらとか、実際そうなったら考えなくなってしまうことをいまのうちにたくさん考えておく。ぼくがここに来なくなっても、彼女はここにくるのだろうか。ぼくはいつか絶対にこの街を出る。そのとき、彼女に訊きたいことが出てきたら、どこに行けば会えるのだろう。もしちゃんと話せたら「それな」とかじゃなくて、ちゃんと自分のこころのうちを言語化できるようにありたい。

 いまはただ、恋には満たないこの感情を、飴を舐めるみたいに毎週じっくりと味わっていた。

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霜月ミツカ/1103号室。
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