生きること、学ぶこと
生きることと考えることをどう結びつけるか?
木下順二は、「子午線の祀り」の中で、人間の力を超えてどうしようもなく働いていく自然。自然の法則あるいは歴史の必然。歴史というのは、われわれ一人ひとりが参加してつくるものであるのか。しかしその結果としての歴史はわれわれの力を超えてある必然を持って動いていく。そういう自然の法則または歴史の必然、その非情の動きのなかで、われわれ人間はもがいていく。祈るしかない。私たちはその日常の中で自らを発見するために経験を深めていくしかないと、知盛らの生き方を通して考えます。
森有正は、生きることは考えることであると放浪のパリで思う。そこで感覚の目覚めという経験に出会う(「バビロンの流れのほとりにて」)。経験とは他の人とはとりかえることのできないものではないか。つまり経験したということは、そこにその個人が存在しているということであり、他者にはわからない内的なものである。それをどのようにして他者に伝えるのか。そこに、「ことば」が必要になる。経験することの重要なことは、全てが受動であるということで、人が勝手に作り出してはいけない。偶然ということ。人が他者には変わり得ないものが経験なので、自分の経験を自覚した時に人は本質的に孤独であることに気づく。孤独とは経験そのものである。主体性というのはだから意識したことの継続ではなく、意識した日常の中で偶然に現れるものとも言える。人は内面的な促しというものを持っています。その表れが喜びとか悲しみです。そういう感情が出て、それがことばになっていくので、ことばが先にあるのではありません。例えば、孤独ということばを考えても人は孤独にはなれない。自分の感覚は思想などのもとにあります。感覚が自分のことばになっていくというのは学びのプロセスでもあるのではないか。自分のことばになるということは「経験」である。ことばが他者にも通じる普遍的な意味を持ってくる。森有正の「定義」とは主観的な経験を普遍的なことばで表すことである。だから、ことばを本当に自分のことばとして使うことが、その人が本当に生きるということと一つになる。
生きることをどのように語るのか?「パリは何も変化していない。時間の進み方も遅い。しかし、自分がその中にいる意味が感覚の変化を感じている。私の中に明らかに変化が生じていく。パリというところと自分の関係に何かの変化が生じている。しかし、これは自己形成の変化ではなく、あくまでもパリと自分の関係の変容である。つまり、自分がパリに受け入れられているという感覚である。」これ以上には語れないのです。
生きることと考えることを日本人は結びつけていないというのが森有正の指摘です。だから西洋から新しい文化が入ってくると、それをことばだけで受け止めてしまって理解していく以外に方法がなかった。理解に留まっているだけでは行動にならないし、自分勝手のものとなってしまう。西洋人はあえて頭を悪くして理解に時間をかけるが、日本人はパターンで物事を見てしまい、本当の自分の目や心でものを見ない。情報が今日のように膨大になると、自分の目で確かめなくても受け入れてしまう。
自分で生きることと考えることをして自分の思想を作らないといけない。そのためには批判的なものに見方を身につける必要がある。疑問形をことばで使い、曖昧な表現を避けるために常に主語を意識する。客観的事実よりの自分の経験を重視して生きる。本を読み人がまとめてくれたものを理解するのも生きていることにはならない。自分の経験を求めて生きるのはとても能動的な活動です。その中には本当の喜びがあります。人は考えることをしないから不安になるのではないでしょうか?
最後に玉野井芳郎先生の言葉です。「私たちの日常は経済的な豊かさの基準で覆われている。経済的な豊かさは人の生き方に根本的な思考の変革を求めはしない。むしろ、生き方を意識下で制御している。経済によって生かされている、否、殺されているのが今の社会の現実である。学びの対象として自分が生きる価値基準を作っていくことがいかに必要か。このことは人の歴史のなかで常に葛藤されてきたことである。」エコロジーという視点で生き方を求め続けて考えた言葉です。私たちは生きることと考えることを日常の中に置いて他者性を学びのスタートにすることができるでしょうか?