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アンラッキーセブン 3話

「いい加減にしろよ。やる気がないなら帰れ!」
 グラウンドに響き渡った岩倉の怒声に、沈黙が走る。
 四日後の日曜日に選手権予選準々決勝が控えている中、決して穏やかとは言えない雰囲気が梁仙トップチームを覆っていた。昨日と同じく、ミニゲーム形式の練習が行われいる最中に、それは起きた。
 岩倉と同じチームだった宮原が、味方である岩倉からボールを奪い、単身ドリブルで相手陣営に突っ込んだのだ。およそ考えられない行動に、誰もが呆然としたが、キレもスピードもない宮原のドリブルは相手にあっさりと奪われ、そのままカウンターの起点となり、失点。自分の失態でボールを奪われたにも関わらず守備に戻らなかった宮原は、当然批判の対象となり、岩倉が激昂したのだ。
「お前、まじで何がしたいんだ? ずっと足引っ張り続けてるけど、その自覚ないだろ?」
 岩倉の容赦ない叱責が、宮原に飛ぶ。昨日なら、この段階で武沢が止めに入っただろうが、今日は誰も止めに入らない。宮原を擁護する余地は、どこにもないのだ。
 遠目でその光景を見ていた白山と蓑田も、これには言葉を失っていた。
 明らかに、今日の宮原はどこかおかしい。チームメイトからボールを奪うなど、とても常人のすることとは思えなかった。まるで、自暴自棄になっているかのようなプレーの連続に、白山は開いた口が塞がらなかった。
 とうとう、精神面までやられてしまったのか――? 岩倉に叱責されていても、宮原の焦点の合っていない瞳は虚だ。心ここに在らずといった様子で、ぼんやりとしている。いつもなら、真っ先に反論していてもおかしくないはずなのに、終始無言だった。
 そんないつもとは様子が違う宮原に調子を狂わされたのか、岩倉も黙りこくってしまう。怒りに満ちた瞳が、次第に言い知れぬ恐怖に侵食されていく。
 この男は、一体誰だ。その場にいる誰もが、そう思った。もう、みなが知っている宮原はそこにいなかった。
「宮原、一度来い!」
 その異様な空気を断ち切るべく、白山は宮原を呼び付ける。それに呼応するように、「ほら、再開するぞ」と、蓑田が笛を吹き、止まっていた時間が再び動き始めていく。みな、重たい足取りで白山の元へ向かう宮原の背中を訝しげに見つめていたが、やがていつもの練習の活気が戻るまでにそう時間はかからなかった。
「どうしたんだ、一体全体。おかしいぞ、今日のお前は」
 目の前にやって来た宮原に、白山はため息を吐きながら言う。久しぶりに近くでこの少年の顔を見たが、少し痩せたように見えるのは気のせいか。白山は、宮原の変化には他の選手に比べて敏感だった。
「お前自身に危機感があるのは、十分にわかる。でも、だからと言って、チームの輪を乱してどうする? 一回、頭を冷やせ」
 宮原は黙りこくったまま、俯いている。ふてくされているようには見えない。その眼はやはり心ここに在らずで、白山の言葉は、何一つとして宮原の耳には入っていない様子だった。
「おい、宮原。聞いてるのか?」
 何も返事をしない宮原に対して、白山は僅かな苛立ちを覚える。成人の年齢であるのにも関わらず、この男はどこまで迷走し続ければ気が済むのか。白山の心の中に、初めて宮原に対する失望の思いが生まれた。そして、その思いは宮原の口から出た言葉により、更に大きくなる。
「…もう、何もかも終わりです」
「は?」
「…終わりなんですよ! 何もかも」
 必死の形相で叫ぶ宮原に、再び周りが訝しげな目線を向ける。岩倉に至っては、最早人間を見る目ではなかった。
「一旦、落ち着け。今、お前は何を言ってるんだ?」
 極めて冷静を保とうとする白山も、心の中では悟りつつあった。これはもうダメなのかもしれない、と。宮原は遂に涙を流しながら、その場に崩れ落ちていく。とても、十八歳の高校三年生の姿とは思えなかった。
 このまま、見捨ててしまうことは簡単だった。寧ろ、切り捨てるには今が絶好の機会といってよかった。これを逃してしまえば、次はいつそのときがやって来るのかはわからない。十分過ぎるほどに、宮原にはチャンスを与えた。もう、いいじゃないか。幸運にも、酒井という代わりはいるのだから。
 白山は、天を仰ぐ。三年間に及ぶ物語を終わらせるときが来ていた。縋りつくこの少年の未来に、これ以上何ができるというのだ。
「監督、俺はどうすれば……」
「知るか。自分で、どうにかしろ。人生は、誰かにどうしてもらうほど、甘くない」
 今度こそ、そう口にするべきだった。宮原のために、梁仙サッカー部のために。
「…何があった? ちゃんと聞いてやるから、話してみろ」
 しかし、またしても鬼にはなり切れなかった。白山は、宮原と心中する覚悟だった。やはりどうしても、宮原のことを諦め切れなかったのだ。
 そして、安堵の表情に包まれた宮原は事の顛末を話し始めた。
 宮原には、一学年下の彼女がいた。名前は、西園寺愛莉。学年の男子からの人気はもちろんのこと、学校中にも多くのファンを抱えている高嶺の花。あらゆる男子が告白をしては彼女の前に散っていく中、唯一、その牙城を破った者こそが宮原だった。 
 昨年の冬、怪我の影響で、選手権全国大会のメンバーから落選した日に、宮原は愛莉を手に入れた。長きに渡って愛莉に恋焦がれ続けてきた宮原にとって、まさに夢のような出来事だった――らしい。宮原は、誇らしげに白山に語る。付き合っていることを話すのは初めてのようで、どこか照れ臭くしながら。数分前までの失意の状況とは打って変わって話すその様は、躁鬱を患っているのかと疑いたくなるほどだった。
 けれど、その顔もすぐに曇り始める。そこからの約一年間、愛莉一筋だった宮原は、昨日突如として、愛莉から振られたのだ。何の前触れもなく、青天の霹靂だった。
 涙目で話す宮原に対して、そんなことかよ、と白山は思う。少しでも心配した時間を返せと言いたかった。高校生の恋愛なんて、そんなものだろう。夫婦の間にすら、永遠の愛は存在しないというのに。今では、妻とすっかりと冷え切った関係にある白山だからこそ、わかる。「好き」という感情は所詮、一時的なものでしかないのだと。
 だが、そんな持論を突き付けたところで、とても宮原の気持ちを立て直すことはできない。気持ちを立て直すことができずに、こんな調子が続くようなら、いよいよ宮原をスタメンの座から降ろさなければならない。もしかすると、メンバーに入れることすらも、副官である蓑田は拒むかもしれない。それだけは、何としてでも避けなければならなかった。宮原がかつての輝きを取り戻せば、全国の頂きも夢ではないのだから。白山は、そう信じて疑わなかった。
「宮原、とりあえず明日と明後日の練習は休め。周りには、体調不良だと言っておくから。今日のお前のプレーも、体調不良でおかしくなってしまった。いいな? 復帰明けも、何か聞かれたらそう答えろ」
 救いの神でも見つめるかのような瞳で、宮原はゆっくりと首を縦に振る。事実、白山は救いの神になろうとしていた。
 選手権県予選準々決勝まで、残り四日。宮原が休むたったの二日の間で、彼の精神状態を回復させる算段が、白山の頭の中には既にあった。

 部活が終わり、生徒が完全にいなくなった校舎の中を歩きながら、白山は西園寺愛莉について考えていた。サッカー部の監督でありながら、政治経済の教師でもある白山は、西園寺愛莉のクラスも担当している。顔は、白山から見ても確かに可愛い。芸能人にいても、遜色のないレベルだ。教師の中には、あからさまに愛莉を贔屓にしている者もいる。
 性格も凛としていて、女子生徒からの人気も高い。まさに、男女問わず憧れの対象だった。しかし、それはあくまで表の顔で、愛莉にも当然欠点はある。
 それは、頭が絶望的に悪いのだ。白山が担当している政治経済だけでなく、現代文から数学、英語から化学に至るまで、どの教科を切り取っても、得意科目というものが彼女の中には存在しなかった。その癖、志望校は私立文系における最強格の大学。高二の冬前の段階で、偏差値は四十前後と、とても一般入試でいける学力は持ち合わせていない。指定校推薦狙いなのは、定期テストに対する熱量から見てわかるが、如何せん、要領が悪いのか、特段目を引くような結果を残しているわけでもない。
 掘り返せばそんな弱みは出てくるが、白山はもっと強烈な愛莉の弱みを欲していた。これから実行に移そうとしていることにおいて、確実に後押しとなるような弱みを。
 そして同時に、白山には確信があった。西園寺愛莉には、何か裏があるという確信が。教師人生・二十年、腐るほど色々な生徒を見てきた。人を見抜く目には、多少なりとも自信があったのだ。
 二年生の教室のフロアである四階に到着し、真っ暗な廊下に向かうと、明かりのついた教室が一つ。二年D組、愛莉の所属するクラスの教室だった。
 スライド式のドアを開くと、教卓の横に置かれた椅子に座る末村の姿があった。末村は、丸メガネ越しから目を細めながら、白すぎる歯を覗かせる。
「白山先生、練習お疲れ様です。いやあ、びっくりしましたよ。まさか、白山先生のような御方が、西園寺愛莉についての情報を聞きたいって言うから。ひょっとして、白山先生も西園寺のファンだったんですか? まあ、気持ちはわかりますよ。でも、一線は超えないでくださいね、ははっ」
 相変わらず、反吐が出そうになるほど舌が回るやつだと、白山は内心毒突く。まさか、こんな下賤な男に、ものを頼む日がやって来るとは思いもしていなかった。今日この瞬間、宮原のために悪魔に魂を売ると決断するまでは。
「悪かったな。帰宅途中のところ、電話で呼び戻して」
「とんでもない、お気になさらず。あの白山先生の頼みとあらば、地獄だろうが魔境だろうが、どこにでも飛んで駆けつけますよ」
 思ってもいないことを口にする末村をスルーして、白山は早速本題に入っていく。こんなところで、この男と長居したくなかった。
「報酬は、いくらでも出す。だから、西園寺愛莉の一番の弱みを俺に寄こせ。あんたなら、それぐらいの情報は持ってるだろう?」
 相変わらず白い歯を見せている末村だが、その瞳の奥は笑っていない。まるで、白山を見定めるかのような目つきだった。
 しばらくの間、沈黙が流れた。その時間は、白山にとって、五分にも三十分にも感じられた。見慣れた教室のはずなのに、気づけばそこは耐え難い空間へと変貌を遂げていた。
「いいでしょう。差し上げますよ、西園寺愛莉の一番の弱み」
 先に沈黙を破ったのは、末村だった。
「それは、助かる――」
「でも、その前に」
 素早く白山を制した末村は、もう白い歯を見せていなかった。
「お聞かせください、理由を」
「理由?」
「ええ、なぜいきなり、西園寺愛莉の弱みを握ろうと?」
「それは……」
 宮原のことを、末村に話したくはなかった。そこまで一人の部員に固執しているような監督だと、思われたくはなかったから。
「私が、なぜ好んで生徒の裏情報を収集しているのか、白山先生はご存知ですか?」
 末村は、椅子から立ち上がり、教室の出入口前に佇む白山の元に向かい始める。まるで、英国紳士のような優雅な足取りで。
「人間はみんな何歳になっても、ゴシップが好きだからですよ。学生のとき、誰々が誰々と裏で付き合ってるだとか、誰々のオヤジが実はリストラされていたとか、そんなおよそ自分の人生には関係のない話で、盛り上がったでしょう? 常に人は、退屈な日常に刺激を求めてるんですよ。だから、生徒の裏情報を集めて、私は退屈な日常に色を塗っているんです。生徒の秘密を知れば知るほど、毎日が新鮮なものになる。世界の視え方が一変するんですよ。最も、白山先生を筆頭に一部の先生方はそんな私を、軽蔑してらっしゃるそうですが」
 当たり前だと、白山は思う。
 つくづく、この男のことは理解できない。人の秘密を知って、何になる? 何もかも知ることが、必ずしも幸福に繋がるとは限らない。世の中には、知らなくていいこともたくさんある。妻の不倫を今も知らないまま過ごしていたら、白山はどれだけ幸せな気持ちで家に帰ることができただろうか。秘密を知ってしまうことで、失ってしまうものもあるのだ。秘密を知ってしまうことで、壊れてしまう関係性もあるのだ。
「でも、生徒の裏情報を収集する上で、御法度なことがあるんです」
「何だ?」
「裏情報を握っていることを、生徒に知られないことです。あくまで、これは趣味の一環。生徒の人生に、私のせいで何らかの影響を与えてしまってはいけません」
「仮に、生徒が犯罪に加担しているような情報を手に入れたとしても、か?」
 末村は少し間を置いてから、メガネの縁を押し上げて「ええ、これは自分のためにやってることなので」ときっぱりと言い放った。
 教師の風上にも置けないやつだと内心思いながらも、白山は今まさにそれになろうとしていた。宮原のために、梁仙サッカー部のために。「全国の覇権を取る」という自身の夢のために。
「私が西園寺愛莉の弱みをあなたに渡す上で、なぜ弱みを欲している理由を聞きたがっているのか、ご理解いただけたでしょう? 白山先生の胸の中だけで、その情報を留めて下さるならば、喜んでお渡しいたします。報酬も、別にいりません。趣味でやってることなので」
「ならもし、俺の胸の中で留めることができないと言ったら?」
「申し訳ないですが、お渡しできません」
 ここで、足踏みしている時間はなかった。白山は、意を決する。今は、自分のちんけなプライドを優先しているときではなかった。
「頼む、この通りだ。その情報を使って、西園寺に何かやましいことをしようと思ってるわけじゃない。でも、今はとにかくそれが必要なんだ」
 床に膝を付けて頭を下げる白山を見て、末村も流石に面食らったのか、大きなため息をついた。
「…顔を上げてください。今の白山先生をサッカー部の部員たちが見たら、心底ガッカリすると思いますよ。全国に勇名を轟かせている白山監督ともあろう御方がそんなことを……」
「何とでも、言え。これしきのことで貰えるなら、安いもんだ」
 白山は、吹っ切れていた。ただ一つの目標にひた走る人間ほど、強いものはない。
「頼む。何も聞かず、俺に渡してくれ」
 ここまで誰かに頭を下げるのは、生まれて初めてだった。小中高大とサッカーでエリート街道を歩んだ白山は、常に他者を蹴落としながら、上へ上へと昇ってきた。誰かにお願いすることも謝ることも知らないまま、プロになるという野心のために身を焦がした。
『お前には、謙虚さや素直さが足りない』
 どこのプロクラブからもオファーが届かず、迎えた大学の卒業式の日に、恩師から言われた言葉。今なら、その言葉の意味が痛いほどわかる。ここは、プライドも体面も投げ捨てて、素直に頭を下げるときだった。
 白山にとって、梁仙高校サッカー部は一つの作品だった。
 県内でも無名校だった梁仙はまさにサッカー不毛の地で、就任当初は部員も11人いるかいないかというレベルからのスタート。部員がポジションやルールを知らないのは当たり前。現在の規模に到達するまでは、実に途方もない道のりだった。
 何度も、道の途中で心が折れかけることもあった。大学時代に共にプレーしていた元チームメイトが日本代表に選出されたときは、嫉妬でどうにかなりそうだった。
 それでも、ここまで白山という男の背中を押し続けたのはひとえに、執念だった。プレーヤーとしては大成しなかったのかもしれない。ならば、監督として俺の思想や哲学を梁仙で体現させよう。この道は間違っていなかったのだと、証明してみせよう。 
 全国の頂に立つことこそが、その答えだ。
 そして、白山の思いが通じたのか、末村は重たい口を開いた。
「……わかりました。後ほど、白山先生の携帯に、送っておきますよ。ただ、間違っても変な気だけは起こさないでくださいね」
「本当にいいのか?」
 安堵の表情で顔を上げた白山を見るなり、末村は不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、一生に一度見られるかどうかわからない白山先生の素敵なお姿をお目にかかれたので、私はそれだけでもう満足です」
 どこまでも鼻につく奴だと白山は思ったが、これでいよいよ準備は整った。後は、明日、実行に移すだけだった。


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