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アンラッキーセブン 5話/最終話

「…お前、何があったんだ」
 昨日の弱々しい姿の宮原と、とても同一人物だとは思えなかった。一日で、ここまで人は変わるものなのか。
 動揺している白山の元に、宮原が近付いてくる。宮原には、どこか近寄り難い荘厳なオーラさえあった。
「監督、俺、もう大丈夫です。昨日、あの後もう一度、愛莉と話し合いました。そこでお互い言いたいことを言い合って……その、復縁したんです。本気で愛莉のことを幸せにしたいって思ったら、めっちゃ力が湧いてきて。今は多分、全盛期以上のコンディションだっていう自信があります」
 ハキハキと喋る宮原は、一皮も二皮も剥けたようだった。女の存在は、ここまで男を強くさせるものなのか。一度は宮原をどん底に突き落としたその存在の持つ力は、まさに諸刃の剣だった。
「だから、監督、今週の準々決勝では必ず今までの期待に応えて見せます。愛莉にも良い姿を見せたいって気持ちももちろんあるんですけど、監督に、チームのみんなに恩返しがしたいんです。この二年間、7番を背負わせてもらいながら、その番号に見合う活躍ができなったことが凄く悔しくて。ずっと受け入れられなかったんです。この不甲斐ない現状の自分を」
「宮原…」
 宮原は宮原なりに、責任とプレッシャーを感じていたのだ。自堕落な生活を送っていたのも、女に走ったのも、現実逃避の一つだったのかもしれない。
「でも、もうこの現実を受け入れました。受け入れて進んでいくって、決めたんです」
 宮原は、「みんな!」と、ミニゲームが行われていたコート内のチームメイトに向けて叫ぶ。
「今まで、迷惑かけてきてごめん。でも、今週の準々決勝では、全てを懸けて戦う。ここでサッカー人生が終わってもいいって覚悟で、点を取りにいく。だから、俺にボールを集めてくれ。必ず、俺が梁仙を勝たせるから」
 白山はこのとき、チームに熱が産まれるのを感じた。復活を遂げた怪物の宣言に、チームの誰もが、目を輝かせていた。遂に、帰ってきたのだ。長年継承され続けてきた背番号「7」の呪いを打ち破った大エースが。この場にいる全員が、歴史の変わる奇跡的瞬間を目の当たりにしていた。それは、チームの結束力を強固にするのに十分すぎる起爆剤だった。
 それからの準々決勝までの三日間、白山は宮原を中心としたチーム作りに舵を切った。ボールを持てば、宮原へと供給する。あれだけ宮原を毛嫌いしていた蓑田や岩倉も、その戦術に対して、意義を唱えることはなかった。全盛期の勢いを超えつつある宮原にボールさえ渡ってしまえば、手がつけられないことはわかりきっていたから。
「白山さん、少しいいですか」
 準々決勝を前日に控えた日の練習後、蓑田が、校舎の中に戻ろうとした白山を呼び止めた。「お伝えしたいことがあって」大柄な蓑田が、いつもより小さく見える。
「どうした、蓑田君」
「すみませんでした。宮原のこと」
 深々と頭を下げる蓑田を見て、白山は静かにほくそ笑む。同じ指導者としていつの日か手の届かないところへ行くであろう蓑田に、一泡吹かせてやったことが嬉しかったのだ。所詮、まだまだ酸いを知らない青二才だ。
「いいんだよ、気にしなくて。俺もまさか、宮原がここに来て、あそこまでコンディションを上げてくるとは思っていなかった。嬉し過ぎる誤算だ」
「…でも、いきなりあんなにも変わるものなんですかね。十五年ほど色々な場所であらゆるカテゴリーの選手を見てきましたが、初めてですよ。段階を踏まずに、宮原みたいに復調――いや、覚醒した選手は」
 未だに信じられないといった様子で、蓑田は首を傾げる。その感覚は、極めて正常といってよかった。事実、白山にも腑に落ちないところはあった。
 宮原の身体は、度重なる怪我で既にボロボロのはずだ。その状態で、どうやって全盛期以上のキレを手に入れられる? 宮原本人は、復縁した愛莉の存在が大きいと口にしていたが、果たして気持ち一つで、身体機能を凌駕できるものなのか? プロの世界でも、怪我の影響で全盛期のパフォーマンスが大幅に落ちてから急に何の前触れもなく、全盛期のパフォーマンスを超える勢いを取り戻した話など、耳にしたことがなかった。普通に考えれば、今の宮原の状況は整合性の取れないようなことばかりだ。
 だが、それがどうしたというのだ。俺たちは今を生きている。明日の準々決勝に向けて生きているのだ。宮原が調子を取り戻したのならば、それでいいじゃないか。願いは、叶ったのだ。夢にまで見た宮原の才能に再び触れることができている。これが、俺の現実なんだ。白山は、自分自身に言い聞かせる。立ち止まってしまえば、すぐに心を浸食しかねない不安から逃れるように。
「まだ、若いんだ。きっかけの一つや二つで、大化けする可能性はいくらでもある」
 そうなんですかね、と気のない返事をする蓑田を他所に、白山は校舎とグラウンドを隔てるグリーンネット越しに目を向ける。試合前日ということもあって、自主練習をしている者はいない。ただ一人、宮原を除いて。
 どうしても最終調整がしたいという本人の強い希望に従って、特別に自主練習の許可を出したのだ。今までの宮原とは想像もつかないストイックぶりだった。
 白山はまるで我が子を見つめるかのような気持ちで目を細める。弾むこの思いを抑える手立てがあるはずもなかった。

 明日の準々決勝は夕方からと決して早い時間ではないが、今日は早く家に帰ってしまいたい気分だった。身体を交わらせた夜から、妻とも良好な関係を築きつつある。白山の人生は、波に乗っていた。しかし、このようなときこそ気を付けなければならない。
 禍福は糾える縄の如し。
 白山が梁仙にやって来る前――かの老将の下に仕えていた時代に、よく言われていた言葉の内の一つだ。上手くいっているときには、必ず邪魔が入る。仮に邪魔が入っても、惑わされないように気を付けろ。その老将は、そうとも言っていた。
 荷物が置いてある職員室までの道中が、いやに長く感じられるのは気のせいだろうか。白山は先を急ぐ。すると、背後の廊下から「あれ、白山先生じゃないですか」と、不愉快な声が聞こえてきた。
 このとき、白山にできることは聞こえていないフリをして職員室に向かうことだった。これから一時間後に知るあることを避けるためには、ここで立ち止まるべきではなかった。
 しかし、白山の足は死神の鎌に既に刈り取られていた。気づけば隣には、末村が立っていた。
「いやあ、土曜にわざわざ学校に来るのも大変ですねえ。本当に、体育会系の部活を担当している先生方には、脱帽です」
 末村は、感じの良い作り笑いをする。早速、邪魔が入ったか。白山は、吐き出てきそうになるため息を堪えるのがやっとだった。
「そちらは、どうして休日にわざわざ?」
「恥ずかしながら、忘れ物をしてしまいましてね。ちょうど、職員室に取りに行くところだったんですよ」
 行き先まで一緒であることに、白山は苛立ちを隠せなかった。そんな白山の様子を察したのか、末村はわざとらしく残念そうな表情をして言った。
「もしや、上手くいきませんでしたか?」
「は?」
「ほら、あれですよ。あれ」
 みなまで言わせる気ですか? 末村はメガネの縁を押し上げながら、続ける。
「西園寺愛莉ですよ。私がこの間送った『弱み』を使って、何らかの交渉を持ち掛けたのではないですか?」
 白山は、すっかりと忘れていた。数日前までは、犯罪に片足を突っ込もうとしていた事実を。この二、三日は、あらゆることが目まぐるしく変わり、過去を振り返っている暇もなかった。
「でも、西園寺愛莉もここのところ、酷く動揺しているといった様子も見受けられませんでしたし……さては白山先生、私が送った写真に驚き過ぎて、ショックを受けてしまった感じですか?」
 嬉々として、末村は更に饒舌になる。
「気持ちは、わかりますよ。自分の担当しているクラスの生徒が、援助交際に励んでいるんですからねえ」
「え?」白山は、一瞬自分の耳を疑った。
「もし仮に、西園寺愛莉が白山先生に援交のことを突かれていたら、普通に学校生活を送れるはずもありません。いかにも承認欲求の強そうな豆腐メンタルの彼女なら、きっと今頃不登校になっているでしょうから。ちなみに、昨日も我々より年上の男性と楽しそうに夜の街を歩いていましたよ」
 理解が、追い付かなかった。
 西園寺愛莉は、援助交際をしていたのか。でも、愛莉は宮原と付き合っているのではないのか。付き合っていながら、援交をしているのか。白山は、自身の頭がぐるぐると混乱していくのを感じる。
 そして、極めつけの言葉たちが、末村から続々と放たれていく。
「彼女も二回り以上の男性と関係を結ぶのではなく、同年代の彼氏をつくればいいのに。彼女、この二年間、あれだけ人気があるのにも関わらず、彼氏ゼロなんですよ? やれ野球部エースの坂本と付き合っただとか、やれバスケ部キャプテンの徳永と付き合っただとか、色々あることないことをよく囁やかれてきましたが、全部嘘です。西園寺愛莉もきっぱりと否定すればいいものの、なんせ口数が少ない子なので、噂だけが一人歩きしてしまってるんですよ。最近だと、白山先生が受けもたれているサッカー部の宮原とも、なにやら噂になっていましたね。ですが、それもまた誰かが流した根拠のないデマに過ぎません」  
 お金ではなく、無償の愛を与えてくれる存在の方が、よっぽど承認欲求は満たされるというのにね。可哀想ですが、彼女はどうやら、そのことをまだ知らないようです。末村は、悲哀に満ちた表情で、そう口にした。白山は、このとき初めて生徒のことを心の底から想い心配する教師としての末村の顔を見た気がした。そこには、一人の大人としてただ傍観者に徹して、何もしてやれないもどかしさが詰まっているようだった。
「白山先生は、受け入れられますか?」
 末村は歩き出していた。白山を置いて、一人誰もいない廊下を。その歩みに、迷いはなかった。
「以前、白山先生にはお話ししましたが、私は生徒の秘密を知ることで、生徒の未来に影響を与えたくないと考えていました。あくまで、自分は傍観者に過ぎない。生徒の人生に干渉する権利は、私には一切ない」
 白山は、生涯忘れないだろう。曲がり角で立ち止まり振り返った末村の姿を。
「でも本当は、その事実を受け入れて、生徒と接することが怖かっただけなんです。もし私が救いの手を差し伸ばしてしまえば、今までのような関係ではいかなくなる。そんな未来に、私は耐えられなかった。弱い人間なんですよ。ありのままの姿の生徒を受け入れることなんて、できるわけがない」
 返すべき言葉は、見つからなかった。末村もまた救いの言葉を求めるわけでもなく、そのまま静かに白山の視界から姿を消えていった。

 再び外に出る頃には日が沈み、肌寒い風が吹いていた。照明が照らされたグラウンドには、いくつかのボールとスクイズボトルが一本。宮原の姿はなかった。
 グラウンド脇にある部室へと、白山は目を向ける。半開きになった扉の奥から、宮原が満面の笑みで出て来る。今までに一度も見たことのない、幸せそうな表情だった。
「宮原」
 宮原は、近づいて来る白山にバツの悪そうな顔をする。いたずらが見つかってしまった子どものような顔で。
「楽しそうだな。部室の中に、誰かいるのか?」
「えっと、それは……」
 相変わらず、噓が下手なやつだ。白山は、宮原のそんな子どもらしいところも好きだった。
「開けてもいいか?」
部室の扉に目を向ける。その先にある世界を見てしまったら、もう元には戻れないかもしれない。それでも、白山にはその覚悟があった。
 宮原は観念したのか、「すみません!」と頭を下げた。
「実は、中に愛莉が――彼女がいるんです。俺の自主練が終わるまで待っててくれて。その後、明日の試合の契機付けにご飯に行く予定でって、この話はどうでもいいか……」
 恥ずかしそうに頭を掻く宮原は、ハッと何か思い立ったように、でも、と弁解する。
「決して、部室で変なことはしてませんから! 監督、これだけは信じてください!」
 思わず、ドアノブを掴んでいた白山の手が緩む。そして、思った。やはり、このまま扉を開けるべきではないのかもしれない、と。
 人の秘密を知って、何になる? 
 何もかも知ることが、必ずしも幸福に繋がるとは限らない。世の中には、知らなくていいこともある。秘密を知ることで、失ってしまうものもあるのだから。秘密を知ることで、壊れてしまう関係性もあるのだから。
 でも、今は妻を受け入れたいと思っている。妻が、白山を受け入れてくれたように。その秘密さえも受け入れて、生きていきたいと白山は思った。
 勢いよくドアノブを回すと、白山の眼前には乱雑な部室が広がっていた。フォーメーションが書きかけのホワイトボード、空気の抜けたサッカーボールが入ったボールかご、様々な制汗剤が混じった甘い匂い。そして、木製の長椅子が一つ。その上には――
「愛莉、ごめん。俺のせいで、監督に見つかっちゃった」
 白山の背後で、申し訳なさそうに謝る宮原の声が聞こえてきた。
「監督、もう愛莉を部室に連れ込んだりしないので、今日だけどうか、どうか勘弁してください。お願いします!」
 宮原の言葉に、白山はただ頷くしかなかった。どのような顔で、後ろを振り返ればいいのだろうか。この期に及んで、そんなことを考えてしまう自分に嫌気が差す。今なら、末村の気持ちも理解できなくはない。まさか、あの男の苦悩に共感してしまう日が来るとは。今までの自分なら、到底考えられないことだった。
 宮原は、自分自身を壊すことで背番号「7」の呪いから解放されようとしていたのかもしれない。
 白山からの、周りからの過度な期待が、宮原の精神を蝕み続けていた。決定的に宮原の何かが壊れてしまったのは、昨年の冬だった。怪我の影響で選手権本大会のメンバーから外れ――そして、長い間想い続けてきた西園寺愛莉からは、相手にもされなかった。援助交際で金銭感覚が狂っている愛莉にとって、金のない宮原は何の魅力も感じられなかった。承認欲求を金で満たしている彼女にとって、宮原は端から眼中にすらなかったのだ。
 サッカー部では立場を失い、惚れていた女からもあっけなく振られた宮原は、それ以来、現実の世界から逃げた。偽りの世界を、生きてきた。そして、今、宮原は完全に現実の世界に戻れなくなっている。長椅子に置かれたボロボロのフランス人形が、その事実を残酷にも物語っていた。
 今この状況で、俺が宮原にしてやれることは、何だ。
 白山は、問いかける。けれど問いかけてみたところで、最初から一つしかなかった。答えは出ているじゃないか。
「宮原」
「はい?」
 振り返ると、中学生のときから何も変わっていない宮原がいた。宮原は、何も変わっていなかった。あのときの、永遠のサッカー少年のままだった。
「今、幸せか?」
 一瞬、宮原はキョトンとしたが、すぐに、「はい!」と、綺麗な笑顔で答えた。そこには、まるで澱みがなかった。雲一つない清々しい秋空のように、どこまでも澄み渡っていた。
 現実を受け入れよう。
 そして、際限のない愛で宮原を包み込もう。人は、誰しもありのままの自分を受け入れてくれる存在を欲しているのだから。否定だけは、したくなかった。幻覚が魅せる希望でも、守り続けたかった。
「宮原を、これからもよろしく頼むよ」
 白山に返事をするように、部室に吹抜けてきた北風がフランス人形の頭を揺らした。

 冬の到来は、近い。全国高校サッカー選手権大会開幕まで、残り約二ヶ月。全国各地では、その切符を掴むために、今この瞬間も手に汗握る熱戦が繰り広げられている。
 梁仙高校サッカー部が迎える明日のゆくさきは、誰にもわからなかった。


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