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私たちにとっての「感覚」そして「表現」

 生物は進化・退化を繰り返し、その時代にあった生き方をしていくことができる生き物です。何億年何万年単位で私たち人間を見ると、頭脳や手先の機能は大きく進化し、この進化によって様々な発明や創造がなされ、今の生活につながっています。たった10年でも目に見える技術の進歩がある一方で、その技術の進化に伴い失われている人間の感覚もある、と言います。

 今回はそんな失われつつある感覚にフォーカスし、私なりの「感覚」に対する考察を述べたいと思います。そして、その感覚を「表現」にも繋げ、新体操選手や芸術家だけでなく全ての人が行う「表現」の根本に迫ることができればいいなと考えています。

「感覚」とは

 今一度、「感覚」について確認しておきたいと思います。

 私たちは感覚を基礎に人間・世界を構築していく

 これは私がこれまで学生として勉強してきたことを踏まえた自論です。母親のお腹の中から生まれたばかりの赤ちゃんには、「快ー不快」の感情しかないと言います。そこから色んなものを見たり、触ったり、口に入れたりしながら、経験と成長と共に複雑な感情を獲得していくのです。“感情“というのは、私たちの感覚をもとに生まれる気持ちですので、私たちの思いのスタートは感覚であると言えるでしょう。

 今ここにいる私やあなたという人間一人一人は、自分が経験した感覚をもとに成長しています。自分と全く同じ身体が世界のどこかにもう1人存在するわけではなく、どこにもない自分の身体によって、自分しか知る由もない感覚経験をすることによって、「自分らしさ」「個性」とも言われるような、私という人間が出来上がる、と思うのです。

 そして、そんな自分にしかない感覚経験を人と共有することによって、他者と関係を作っていきます。「馬が合う」なんて言葉もありますが、これは自分の中に構築された「リズム」「感覚」がなんとなく近いと感じる人に対して使う言葉です。また人に限らず、自分の感覚はモノとの関係も作ります。ペンひとつをとっても、「書き心地」「握りやすい」ものを使いたいと思います。自分の感覚をもとに「お気に入り」を作り、いつしか自分の周りには「お気に入り」でいっぱいになるでしょう。ここに「お気に入りの世界」ができます。

 このように、自分という人間や、その人間が作る他者・モノとの世界の根本には「感覚」が存在しているのです。

退化しゆく感覚

 「舌バカ」という言葉があります。これはモノの味がわからない人に対して、揶揄する意味を込めて使う言葉です。500円のワインと50000円のワインの味の見極めがつかない時に「舌バカだね」なんて言っているのを聞いたことがありませんか?(そんなワインの味なんてかなり熟練されていないとわからないと思いますが…)

 舌の感覚は、そもそもその食べ物が毒かどうかを判断する重要な器官だったそうです。毒を身体に入れてしまっては死んでしまいます。飲み込む前に舌で味を判断することで、毒によって亡くなってしまうのを防いでいたのです。今、私たちの食卓に毒かもしれないものが並ぶことはほとんどありません。技術の進歩により、製造の段階で危険なものは排除されるのが当たり前。自分の舌によって危険物を判断する必要性は無くなりました。その結果、人間の舌の感覚は鈍くなったと言います。

 また、私たちの退化は足の裏にも及んでいます。

 私たちは靴を履いて、その上ツルツルに整備された道を歩きます。最近、自然のままだった山道が人間の歩きやすいように整備された画像がTwitterで回ってきました。そのTwitter曰く、「飛脚は自然な山道だからあれだけ走れた」そう。コンクリートの硬いツルツルではなく、あの柔らかい土だから走れたのでしょう。ツルツルの整備された道を私たちが好むのは歩きやすいからですが、歩きやすさを求めるばかりに、足裏の感覚はその必要性を失っていきます。

感覚に近すぎる世界

 「AMSR」をご存知でしょうか。耳元で音がしているかのような、直接聴覚に届く感覚を味わうもので、YouTubeには動画として投稿されています。具体的には、咀嚼音・耳掻き音・タイピング・ささやきなどなどがあります。聴覚の快感を味わうもので、最近かなり流行っています。

 これ、一度聞いたことがある方はわかるかと思いますが、聴覚にとても近い。普段ある程度の距離感を持って、また雑踏の中で聴くものが、何にも邪魔されずにダイレクトに耳に届きます。この感覚にダイレクトに届く感じが快感で落ち着くという感覚はよくわかりますが、人間の聴覚の衰えに近づいている感じがしてなりません。

 個人的に聴覚はすごいと思っています。私たちの身の回りにはたくさんの音が溢れています。その中から、今の自分に必要な音のみを抽出して聴くことが可能なのです。目でいう「焦点」のようなものを作り出すことができる。ASMRに慣れてしまうことによって、このような聴覚の感覚もいつしか必要なくなり退化してしまうのかな…とも思ってしまいます。

それでも感覚に頼っている

 (退化全てが悪、だとは思いませんが)すでに退化が見られる「味覚」「足の裏」、そしてこれから退化の危機に迫ると思われる「聴覚」の例をもとに、人間が技術を向上させ生活を豊かにする一方で、感覚を退化させているというお話をしました。

 これからもっと技術は向上し、便利な世の中になり、退化に脅かされる感覚は増えていくかもしれません。

 それでも、一番初めのお話に戻って、人間のスタートは「感覚」であるということは変わらないのではないか?と思います。そして、これからの社会こそ「感覚」が大切になる!と思っているのです。

 これからの社会では「新しい価値の創造」が求められると言います。また、「VUCA」と呼ばれる、複雑で正解を導き出すのが難しい、一筋縄ではいかない社会であるとも言われています。科学技術の進歩に伴い、科学に判断を委ねていた部分が、科学では判断が難しいほど世の中は複雑になっているというのです。

 最近では、ビジネスでアートを学ぶ方向性があります。これは、科学に判断が難しいものを人間の力によって判断するために、またこれまでにない新しい価値の創造のための力をつけるために、アートによって感覚を研ぎ澄ませ直観を磨く、という意図があるそうです。

 発達の段階で感覚がスタートになること、これからの複雑な社会で生き延びるため、この2つの点から人間が感覚から離れることはないでしょう。しかし、私たちは感覚が蝕まれてしまう可能性を含む易しい世界を生きています。今一度、私たち人間はアンテナを張り、様々なものを受け取ることが可能な受容体になることについて考えるべきではないかと思います。

最後にー「感覚」から「表現」へ

 ここまで、感覚についての私なりの考察を述べてきました。

 以前、想像力の話をした時に、

想像力は感覚(個々の持つもの)と概念(みんなが共通して持つもの)とを繋ぐ役目がある

 という、哲学者カントの想像力論について少し述べました。感覚という、個々の身体によって感じるその人しかわからないはずの感覚を、他の人が理解できるのは、想像力という力があるおかげだということです。

 この感覚から想像力を使って概念にまでいくという作用は、他者と生きる私たち人間にとって欠かせないものですが、私は概念に到達した後、もう一つ必要なことがあると思います。

 それは「表現」をすることです。

 私たちの思考や思いそして感覚は、そのままでは私たちの身体に閉じこもったままです。これは身体を脱することで始めて形になります。その身体を脱するというのが、表現をするということです。様々な形で表現されたものを受け取り、そこからまた感覚ー概念の流れが生まれ、続いていく。そんな風に想像しています。

 (自分の思考や感覚だけで山ほど身体に眠っているのに、表現の方法も山ほどあって、そこから合ったものを選択する…という作業を毎日行っていると考えると、人間ってすごいなと思うばかりですね。)

 とはいえ、まずは「感覚」がスタートというのは、忘れてはいけないと思います。教育現場でも、新体操の世界でも、「表現」というアウトプットの活動に焦点が置かれていて、その手前の作業が蔑ろになっている部分があります。感覚はただでさえ、技術の進歩した現代の生活では使わない場面が増えてきた、退化しつつあるものです。表現を考える上でも、そのスタートである「感覚」を大切にし、そこにフォーカスすべきだなと、改めて感じています。


最後まで読んでいただきありがとうございました😊

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