自転車のオリジナリティ?

11月29日(火)は、畑や庭のことはせず、自転車の修理へ出かける。

朝来市のお隣、京都府福知山市にある自転車店へ。

この自転車は5年乗っていて、そろそろ全てのパーツにガタがきている状態だ。これまでタイヤなど何度か交換したのだが、今回はギアとチェーンの調子がおかしいので診てもらうことにした。

診断してもらった結果、ギアの山が潰れ、チェーンが伸びきっており、即交換の必要があるということだった。ついでにブレーキも効きが悪いので診てもらうようお願いすると、ブレーキはもちろん、前輪のホイールがもうすぐ割れると言われた。ホイールが割れるとはどういう状態のことなのかいまいちピンとこないが、相当ひどいらしいので、それなら仕方ないと思い、大規模な修理を依頼することになった。

僕の自転車は、anchorというメーカーで2011年に製造されたシクロクロスと呼ばれるタイプの自転車である。シクロクロスというのは砂利道や草地などオフロードを乗れる自転車とか競技のことを言うのだそうだ。


12月10日(土)、修理が完了したということで、福知山まで取りに行った。今回は大規模な修理になった。チェーンを交換するとそれに伴いギアも交換。それに加え前ギヤの変速機も取り外し。おまけにブレーキがちびっているので交換。そしたらブレーキのワイヤもすり減っているので交換。極め付けにホイールが割れる寸前という始末。改めて文字に起こすとよくこんな状態で乗ってましたねと。

格好良くなって帰って来てくれた。ようやくまた明日から走り回れるぞ。

写真では分かりにくいが、「生まれ変わった」を実感するような変わりよう。どう説明すれば良いかわからない。


ところで、ふと思ったのだが、この自転車を買った当時のままのパーツってどれだけ残っているのだろう。ちょっと適当だが、振り返ってみた。

表の赤い部分が、変更回数0回目、つまりオリジナルの部分。あとは付け足したり新しいパーツに交換したりして徐々に変化している。2011年に買った直後からカスタマイズが始まっているな。

いろいろと現状変更を繰り返し、現在僕が使っている自転車でオリジナルの部分といえば、フレーム、ペダル、サドルの3つだけだ。さあ、果たしてこの状態で、僕の自転車は「anchor2011年製のシクロクロス」だと言えるのだろうか。

anchor2011は言えるかな。フレームにanchorが残っていて、調べればこれが2011年のデザインだとわかるからだ。

ただ、シクロクロスはどうか。ギアとチェーンを交換してしまった。前ギアは大中小と3つある。これはオフロードに適した構造になっている。今回の修理で、前ギアは1つになった。これはロードバイクのようなオンロードに適している。ここで、ロードバイク型のギアに替えてしまうと、シクロクロスとしての値打ちはどの程度になってしまうのか。

まあ、まだフレームという本体っぽいところが残っているので、本物性は保たれているような気がする。

では、いつの日か全てのパーツが交換され、オリジナルの痕跡が失われたとき、その自転車のオリジナリティはどこにあるのだろうか?

もし、フレームもペダルもサドルも全部交換してしまったら、この自転車のオリジナリティはどこにあるのだろう。しかも、本来の自転車にあったオフロード式からオンロード式に変わってしまったら。さすがにanchor2011シクロクロスというのは厳しくないか?

確かに、anchor2011のフレームがGIANT2019のフレームになったら、もはやその自転車は完全にanchor2011シクロクロスではなくなってしまう。

だが、そこに焦点を当てて考えることに意味はない。なぜなら、この自転車がanchor2011シクロクロスであることにどういう価値があるのかという疑問に答えられないからだ。希少性もないわけだからこの肩書きには意味がないのだ。

僕は、初めてこの自転車を買った2011年、これに何を期待したのか思い出す必要があった。そこにこの自転車の本質的な価値の所在を明らかにするヒントがあるのだと思った。つまり、この自転車anchor2011シクロクロスは、anchor2011シクロクロスであることに価値があるのではなく、僕がanchor2011シクロクロスに与えた意味によって価値づけされるのだ。それは何かと言うと、ロードバイク並みの速さで走れること、僕の好みのプロポーションであること、ロードバイクより丈夫であることだ。そこに、シクロクロスとしての機能もanchorであることも期待されていない。あと、どれだけカスタマイズしようと、その自転車は僕が2011年に買ったものだという事実だけは残る。将来面影がなくなったとしても、それは紛れもない僕の2011年生まれの自転車なのだ。人は5年かけて身体の細胞全てが新しく生まれ変わり、5年前の自身とは違うものになっているというが、それと同じようなものなのだと思う。

この自転車は製造者が与えた価値はある程度失われてしまうが、僕の期待には応え続けてくれる。ただ、製造者が与えた価値というものを無視するのが良い判断かどうかはわからないが、結局はその効用を得るのは僕だし、自転車として機能するという最低限の価値を損なっているわけではないので許される範囲の話だろう。


以前、1994年世界文化遺産奈良カンファレンスで採択された奈良文書の、文化遺産のオーセンティシティ(真正性)について、学校で議論したことを思い出した。日本の建造物文化財などは改修を繰り返しまくって、元の材料とかもう残ってないんじゃないのというところまでパーツ交換されている。木造だからそうせざるを得ないんだけど、それってオリジナリティあるって言えるの?って外国から突っ込まれた。結局その価値は、その遺産に固有な文化に根ざして決めることとなり、オリジナルであると言える(真正である)となったんだけど。

確かに、法隆寺なんかは焼けたり大改修したりしているから竣工当時のままではないし、徳川の時代に勝手にカスタマイズされたりもしているので、そりゃ石文化の欧米からみたらオリジナリティどうなのってなるわ。でも、その価値はその土地の文化によって決まるのだから世界遺産として認められるんだうかね(登録は1993年だけど)。日本はそうやって現代までいろんなものを残しているからね。ただ、僕としては法隆寺の世界遺産としての価値よりも、法隆寺の価値は何なのか気になるけど、それって誰が決めるんかね。

この自転車もだいぶ様変わりした。鎖のようにパーツ同士が同じ時代を共有しているのが面白い。たとえオリジナルのパーツがなくなっても、変化の歴史を辿るとオリジナルとつながるのだ。まるで曽祖父と自分の繋がりを探ろうとしているようだ。


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