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勉強する意味

「ねぇ、丸の面積ってどうやって求めるか知ってる?」

それが、初めての会話だった。

算数の授業の後、次の移動教室に向かう途中、身長の並び順がちょうど隣同士になる男の子から問いかけられた。

「縦も横もないから面積が求められない。」
少し考えてから、私は言った。長方形の面積=たて×よこを習った後だった。

「それがね、求められるんだよ。」

その子が教えてくれた半径 × 半径 × π。

初めて知った円の面積の求め方だった。
その次の年か、次の次の年の授業で、円の面積の求め方の公式を授業で習い、私はこれを「知っているな」と思った。知っていて、そして、3.1415926535くらいまではその続きを言うことができた。だけど、この時私たちはゆとり最前線にいて、授業では「円の面積は半径×半径×3です。去年までの教科書には3.14と書かれていましたが、テストではこの解き方を知っていれば良いわけですから、難しい計算をしなくても3でいいのです。そもそも3.14でもないですし、中学生になったらπの勉強をしますので。」と教えられた世代だった。あの頃、じゃあなぜ今はπではなくて3で計算するのだろうと、少しだけ訝しんだ記憶がある。

それよりももっと昔、小学2年生の時、まだかけ算を授業で習う前、先生が1×1から9×9までが書かれたプリントを持って授業にやってきたことがあった。

「これから習うかけ算という勉強がある。これをみんながどの程度知っているのか把握しておきたい。」と言ってそのプリントを配った。まだ習ってもいないかけ算を、先生はなぜ知っている人もいるという前提で解かせたのか。かけ算という言葉自体初めて聞く人もいただろう。だけど、隣の席の子は、スラスラとそれを9×9=81まで解いていたし、そのプリントが一番後ろまで配られた瞬間、教室にはカリカリと鉛筆の音が響いたから、きっとその隣の子以外の子も、解けていたんだと思う。

予習や復習という言葉が、この世で最も大切なもののように扱われていた。それが少しだけ、ゆるりとぐにゃりと変わった感覚があった。

そして、土曜日午前中の学校がなくなった。

その数年後、高校生になった私は数学で解の公式を習った。この時にはもうその授業を、算数ではなく数学と呼ぶようになっていた。

授業で、先生が教えてくれた。これは、もしもし亀よに合わせて歌うように覚えればいいのだと。

「2a分の〜マイナスbプーラスマイナス平方根
bの二乗にマイナスの〜4をかければaとc〜」

たしかにハマる。この授業のおかげで、私はこの解の公式ずっと忘れることがなかった。あれから10年経った今でも覚えているくらいだ。

覚えていても、この解の公式が私の実生活において使われたことは、ただの一度もなかった。

***

「はやく大人になりたい。」
大人になることに憧れを抱き始めた理由は、軽率だった。大人になれば誰もが、自分のやりたい仕事をして、働き終わったら家に帰る、夜は家族と夕飯を食べ、テレビをみたり本を読んだり、思い思いの好きな時間を過ごし、宿題ではなく自分がしたい勉強をして好きな時間に眠る、お金ももらえて、欲しいものだって買える。そんな生活を送れると思っていたからだ。

大人っていいな。そう思いながら、分数のドリルを解き、漢字検定の勉強をし、歴史上の偉人たちの功績を暗記した。

こうして今、実際に大人になってみると、必死になって覚えた公式の大半を忘れたし、あの時は意味だって理解していたはずなのに、今となっては読み方すらも怪しい四字熟語がある。あの偉人は、何年に何を成し遂げたのか。忘れてしまった。忘れてしまったけれど、私は、大人になった。

「人生は、大学では決まらない。そう思う。でも。
行きたい大学を目指す日々は、その努力は、人生を変える。」

街中で、うまいキャッチコピーだな、と思った。
代々木ゼミナールの広告だ。

人生に悩んだ時、別にあの時習った公式を当てはめてその答えを導き出せたわけではない。偉人がこっそり正解を教えてくれるなんてこともない。
だけど、大人になってみて思うのは、知識というのは、役に立つか立たないかではなく、自分が役に立たせられるか立たせられないか、なんじゃないかなということだ。役に立たせることができなかった知識は、自分の学びが足りなかった分野なんだと。だけどそれが悪なのではなくて、それを役立たせてくれるのは自分ではない他の誰かでもよくて、自分は自分で役に立たせられる得意分野を極め、智を後世に残す、そうやって生きていく私たちそれぞれがそれぞれに、勉強をしていくというのが、意味なんじゃないかと思うんだ。

***

今Googleで分からないことを調べたら大体答えが分かるのも、誰かが残してくれた知識を、また他の誰かがそれを学び、さらに知識を加え、後世に残し、そうやって、歴史を繋いでいるからだ。未来が間違わないように。地球がそして生命が続いていくように。結局のところ、遺伝子に支配されてるのかもしれないなと考えたところで、伊坂幸太郎の重力ピエロの読みすぎかな、とも思い、思考を中断した。

いつかドラゴン桜という漫画をひたすらに読んでいた時代があった。主人公の桜木先生から、ルールを作る側の人間になるために勉強するんだとすりこまれた。馬鹿とブスほど東大へ行けと。パワーワードだなと感じた。東大には行けなかったし、選択肢にすら上がらなかったけれど、看護学科での勉強量をこなせたのはきっとあの漫画から受けた何かを自分の中で消化させていたからかもしれない。

最近noteを通じてお友達になったふぁそらくんという人がいる。彼こそが東大生であり、東大生とはどんな人なんだという興味から、彼の書く文章を沢山読んだ。一言で言うと、おもしろい。

その彼が、大学の授業で先生に言われた言葉を紹介していたことがあった。

「おいお前ら。お前が東大生になって良かったと思うことは何かわかるか。お前が東大生なことじゃない。周りが東大生だということだぞ。」と。

妙に府に落ちた。彼がおもしろいのも、ただ単に笑えるといった類のおもしろさでもないのだ。
funnyな話ならYouTubeでもお笑い芸人でも間に合ってるけどここにいるとinterestingな話が聞ける、それがここにいるメリットだと、彼もそう言っていた。

学ぶことができる生き物に生まれてしまった以上、この特性を生かさないと損な気もする。楽しみきれていないというか、生まれながらにもっている学ぶという特殊能力を発揮することなく持て余しているのは、なんだか勿体無いなぁとも思う。

だから私は、今日も勉強する。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。