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自己愛を恋愛に置き換えた時代~「ユーミンの罪」

ユーミンのアルバムをよく聴く。
彼女の作品はシングルではなくアルバムで聴く方が、とても堪能できる気がするのだ。サブスクリプション全盛の昨今では、アルバムという形式そのものが意味をなさなくなっている気がするが、彼女のアルバムを聴いて”物語性”の意義を再確認するのも、とても有用なことではないだろうか。

そんなユーミンに関する面白いエッセイを読んだので、併せて紹介したい。

著者の酒井順子は「負け犬の遠吠え」で一世を風靡したエッセイスト。彼女の実体験も交えながら、当時を追体験できる構成になっている。

「恋愛の教祖」とも言われたユーミンが、同時代の女性たちにどのような影響を与えてきたか、主に歌詞に着目して分析をしている。まあ後付けというかこじつけというか、実際のところはわからないのだが、「確かにそうとも言えるよね」という程度には読ませる内容だと思う。

いくつか面白いと感じた箇所があるので、紹介したい。

1978年発表の「流線形’80」の章。

私は、この頃から日本の若い女性が、「〇〇をしている男の彼女としての私」という自意識を強く持ち始めたことを示すのではないかと思います。
 それは、スキーやサーフィンをしている彼が好きというより、スキーやサーフィンをしている彼を持つ自分が好き、という感覚です。(中略)どのような彼を持つかによって自分と自分の青春との価値が決定するが故に、女性達は車種や大学名やスポーツといった、彼に付帯する状況を厳しく選ぶようになってきました。(中略)恋愛と自己愛とが分かちがたくなってきたそんな時代背景を、ユーミンは捉えているのです。

「ロッヂで待つクリスマス」

1979年発表「悲しいほどお天気」は、自分もとても好きなアルバムなのだが、酒井は次のように語る。収録曲「Destiny」について。

ふられた相手に復讐を誓う気持ちは、二層の外側、すなわち「新しい女」性を。そしてふられた相手に思いを残すところは、二層の芯、すなわち「古い女」性を示しているように私は思います。ユーミンがあの頃の女性達の気持ちを掴んで離さなかったのは、女性の立場が大きく変わっていく時代の中で、女性達の精神が、これから二つの層によって股裂き状態になりゆく、その未来を予言していたからではないかと思うのです。

「Destiny」

1985年発表の「DA・DI・DA」。バブルの幕開けを予感させる、それまでの作品群と一線を画した感のあるアルバムである。ユーミンファンはこのアルバムより前と以後とを分けたがるらしい。このちょうど真ん中の「メトロポリスの片隅で」について。

私は、このアルバムが出た当時、男と別れる度に「メトロポリスの片隅で」を聴いて「仕事をがんばろう!」という気になっていた若い女性達こそが、いわゆる負け犬の源流なのではないかと思っています。仕事という拠り所がなければ、独りでいることの寂しさに負けて、彼女達はあっさり結婚したのではないか。

「メトロポリスの片隅で」

おまけでこの曲が使われた資生堂のCMも。

そして、最後の「あとがき」でこのように締めくくっている。

 女が内包するドロドロしたものを全て肯定し、ドロドロをキラキラに変換してくれた、ユーミン。私達は、そんな風に甘やかしてくれるユーミンが大好きでした。ユーミンが描くキラキラと輝く世界は、鼻先につるされた人参のようだったのであり。その人参を食べたいがために、私達は前へ前へと進んだのです。
 鼻先の人参を、食べることができたのかどうか。それは今もって判然としないところなのですが、人参を追っている間中、「ずっとこのまま、走り続けていられるに違いない」と私達に思わせたことが、ユーミンの犯した最も大きな罪なのではないかと、私は思っています。

もちろん、そんなことを「私達」が思うことはユーミンからすれば知ったことではないと思うのだが、実際のところユーミンとしては当時の世相をどう見ていたのだろう。

酒井は本書の中で恋愛のゲーム化について言及しているが、いまや恋愛はゲームにすらなっていない「オワコン」へと凋落しているのかもしれない。自己愛を満たしてくれるものは他にも溢れかえっているのだから。最近のユーミンの曲はあまり聴いていないのだが、同時代のユーミンにもぜひ触れてみたいという気になった。

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